全ては縁により生じ、縁により滅す。原因、由来、因果、いずれも不明の高熱を発症し、まとわり付く膨大な汗を引きずって寝返りを打つと、いきなり衝撃が走った。
ありとあらゆるゴミが隙間なく散りばめられ、万華鏡の如く華やかに汚れきった床へ、それより更に汚いベッドの端から転落して叩き付けられたのだ。
と、そこは以外にもひんやりとしており、ベッドに戻る事は直ぐに諦めてしまうと、もがくように微かな寝返りを打って少しずつ熱を逃がしながら、時折に聞こえる間延びした悲鳴がサルによるものなのか、或いは人のものなのか、いつとはなしにぼんやり考えていると、其れは自分自身の呼吸音である事に気付き、先刻訪れた医者の事を、途切れそうな意識の中に嫌でも思い出さずにはいられなかった。
マナウスからモーターボートで10日、無謀にも単身ネグロ川を気分まかせに遡り、観光ルートを全く無視している自由奔放に適度な興奮を覚え、ビンガを痛飲しながら強い風に吹かれていると、いきなり制御不能な震えがきた。
震えの余波で有らぬ方向へ顔が振れると、視野の角がチラと岸辺の村を捉えており、薄汚れた本性に導かれるまま、思うに任せぬ手足を操り丸々と肥えた身体を舵へと押し付けた。
すると苦労のかいがあって腹の肉で舵が回ると、痛快なスピードで岸に突っ込み、何処でボートの大破する音を聞きながら、首の骨を折る事もなければ手足を損なうという事もなく、ずぶ濡れの身体に砂を集めて転がり、出来損ないの馬糞様に川辺へ停止した。
アマゾンの地にざわめきが戻ると、それに連れて何処からともなく童子の群れが現れ、かつてボートであった残骸を恐れる風もなく取り囲み、それでも最初は遠巻きに眺めていたが、慣れると輪をせばめて其の周囲に遊び始め、そもそもの事の始まりは気にも留めていない様子である。
思えば今生に於いてさえも、恥というものを体験せずに過ごしてきた人生であった。心技体共に社会一般と大きく異なる属性を所持し、著しい差別や偏見の対象となりながら、躁病も発症しなければ薬物を乱用する事もなく、傲岸不遜や鉄面皮、誇大妄想とも縁のない生活を続けてきた。つまり非常にバランスの取れた気違いへと成り果せた事が出来た。
しかし、ここへきて突然に顔から火の吹く恥辱に狼狽えると、ひっくり返った亀の如くヨチヨチともがき、身体機能を総動員して事態の解消を図っても、ただ痺れが走るばかりで、つまらない屁の一つを放つ事も叶わず、醜い自業自得を露呈し続けるハメとなった。
此方の心情を知ってか知らずか、童子達は遊びに専念している。童子達の余りの無辜ぶりに驚きもしたし、救われた思いもしたが、いま少し突入の進路を誤っていたのなら、予備のガソリンを満載したボートが岸辺の村へ大爆発をする事もあり得たのである。死力を尽くし、震える手で銃を引き抜くと、空へ向け二発三発と発砲した。
驚いた童子達が一斉に村へと駆け出し、ボートの残骸から引き離す事に成功すると、身体が分解する程の震えが始まり、アマゾンの地がネグロを守るため、不埒者に対して瘧を送って来た事にようやく気が付いたのであった。
直ぐに痙攣と冷や汗の追い討ちも始まり、このまま死ぬのは一向に構わないが、もしや悪疫の蔓延の元になるかもしれぬ事態を思うと、病んだ身体を動かす事も叶わず、ただ其処に存在するだけで村に害を及ぼす、塵界からの慮外者を、事態が手遅れにならぬうちに手早く処分する方法が何かないものか真剣に模索した。
しかし馬鹿の考え休むに似たり、元より人後に落ちる者が病を得て更に成分の強化を成し遂げた訳であるから、思いつくのは碌でもない事ばかりで、良い方法が何も思い付かないのはこれまた理の当然であった。
それにしても後悔先に立たずで、今更の思案を為すくらいなら、さっさと村を無視して行けるだけ、果てしなく何処までも行けばよいものを、命根性の汚さが祟って死出の旅路を躊躇い、事ここに至って漸くの慙愧とは余りに厚かましく、しかも汚れ無き善男善女に災いの種を蒔き、あまつさえ自らの身一つを処する事も叶わず、あさましくも膨大に蓄えた脂肪と共にただアマゾンの陽射しに焼かれるままとは、たとえ余人の誰が許そうとも、このような痴れ者を私は断じて許さない。
馬鹿の考え休むに似たり 壱
食えば減る、眠れば醒むる世の中に、ちと珍しく、死ぬも慰さみ。過去の思念と行為の一切が現在の私を形成していることは自明の理であるから、何の良いアイデアも浮かばない此の私は、人としての生き様に見るべきものは何も無かったという事である。
暑く、そして激しい、安らかなアマゾンのざわめきが即死を促すように此方へ吹き付けると、慮外者にはいつもの反発心もなく、自宅に置いてあるウマイ棒の食べさしを残念に思ったり、結果的には古い借金を踏み倒す事にもなるので、総合的に勘案すると今回の出来事も悪い事ばかりではなかったな、と思ったりするのだった。
それにしてもたったいま、何か許せない事があってかなりの決意を成したはずなのに、いつの間にやらすっかり全部のイザコザが済んでしまった感じになっており、「恥ずかしい話だが、やっとこの野郎にも人生初の有言実行という罰を思い知らせる時が来た、ザマミロ俺」と義憤に駆られていたのに、「もう全て済んでしまった事じゃないか」という風になってしまっているのは、余りにも自分自身に都合が良すぎるし、何だか釈然としない。
もともとは発達異変から発達崩壊に至った人間でもあり、自分自身の心の動きを把握して制御するという当たり前の事がまるきり出来ないし、しかも其の様な傾向を長年にわたって放置していたため、いつの間にやらケチな小悪党としての人格を完成させてしまい、そのままおとなしくしておればよいものを、小悪党風情がしゃしゃり出て市井に分け入り、図々しくも人並みに人生デビューして現在に至っているとは、無責任の極まりない許せぬ大悪党である。
こういう人間の周囲は必然的に大迷惑を蒙る事が多く、所が変わり品が変わっても、その場所その場所で大問題を引き起こすのだからやり切れない。やはり断固たる処断を為すべきであり、最前の決意は妥当であったのだ。
いつもなら、この思考過程を飽きるまで無限ループしてから酒を呑み、大抵はそのままフテ寝してしまうのだが、今回は体も動かないし、意識もはっきりとしない。
パラパラパラ、カラカラカラ、すると全天から光と声が鳴り響き、回想に耽っていた私の邪魔をすると、今度は辺りに光の輪がいくつも出現して、太陽とは比べものにならないほどの輝きぶりである。
「これはあれだな、ドッキリだかハッキリだか云うテレビの企画だな、屑共がいよいよ人の生き死にまで手を出しやがって、元より報道や娯楽を提供する人非人のやる事だから仕方がないのは仕方がないが、それにしても驚いたのは、屑は屑なりに目を驚かす鮮やかな演出効果は見事だったし、方法は分からないが、とくかく全天に光と音を走らせた快挙は天晴れと云うしかないな」
考えているうちにも光と音はますます勢いを増し、いつしかサラサラと光の粒が川となって流れ、その川は誰かの歌が光の粒となって響いている事に気が付いた。
これはどうやら人為的かつ作為的なシロモノとしては到底説明出来ない激しさである事が分かり、そして何故か眩しいと云う事もなく、音にしたところが鼓膜全壊、脳震盪は必至であったはずなのに、むしろもっともっと光り、まだまだ鳴って欲しいと感ずるくらいで、随分と不思議に思っていると、あまりにも当然の結論がやっと出た。つまり、いよいよ瘧の毒が脳に回ったのである。
また声がして随分と嬉しそうである。それは何としても、どんな犠牲を払ってでも、必ず声の主を探し出して対面せずにはいられない、そういう声であった。
すると再びどこか遠くで光が笑った、笑顔と光がハッキリと見えたが、もちろん知らない人物で初めて見る顔だった。背後に広がる場所も随分と広い事が分かるばかりで、今までにまったく見た事がない景色であった。
地球がゴルフボールにしか感じられない、広く大きな澄んだ湖があちこちに点在しており、目が慣れるにしたがって、其れ等は草原の中の極一部でしかない事が分かり、私の意識では到底把握できない計り知れぬ広さに驚いていると、草原の向こうには全てを領する銀嶺が上下左右に目一杯、真っ白に広がっていて、湖や草原がパースリーのショートホールにしか見えない壮麗さに、今度こそ腰を抜かすほど驚いた。
そしてまた笑い声が響き、
——つまらないやつ、面白くないやつ、どうしようもない愚かな人間の屑。そして偽善、偽善、また偽善、偽善者の手本にでもなるつもり、お前はもう立派な偽善の王だ——
叱責する声の厳しさ激しさは類をみないが、銀嶺の彼方から響いてくる声を聴いていると、ただひたすらに良かった、本当に良かったと思うばかりである。
——お前ほど愚かな男はかつて見た事がないし是からも又ないだろう、お前ごとき馬鹿者に話す事などは何もない。本来なら関わり合う事もない男だが、此処に来たのなら仕方がない ——
随分と酷い云われような気もしたが、何故か腹の立つという事もなく、ああ~やっぱりそうだったのかあ……と、また思うばかりである。すると、虫、鳥、野獣、密林、地面、流れる河、吹き寄せる風、照りつける日差し、アマゾンの命のうねりが壮麗な交響曲となり、空の彼方を超え、どこまでも広がって行き、しばらくすると見えなくなった。
この世界が美の極致を体現する為に創造された事が分かると、不屈の反抗心が、反逆の為に命を捨て続けてきた生き様が、何処かで全ての暗闇をなぎ払い滅する、黄金の不死鳥が離陸した事を感知した。
すると我に返り、目が覚めたのか、或いはもっと深い夢なのか、とにかくボートの残骸の傍らに、瀕死の病人が瘧病み相当に震えて倒れているだけの話だった。
バズバズバズ・・・おぞましい腐臭を放つように微かな音が耳に届いた。いくらアマゾンが未知の可能性に溢れていても、この卑しい音には縁も所縁もあるはずがない、到底この世のものとは思えぬ身震いするような忌わしい響きである。
それにしても、同じ音は音でも、先程来の白昼夢と比べると其の出所は余りにも違うように感じられた。音のする方を見ると、日本から持ち出した風鈴が割れて舳先の残骸にぶら下がって鳴いているのであった。
種が知れるとつまらないものだ。きっと日本から持ち出した奴はそれ以上につまらない大馬鹿者のロクデナシに違いない。
風鈴は鋳型によって作られ、出す音色は鋳型によって決められた音色である。型にはめて大量生産するのであるから当たり前だが、これに関しては人間も風鈴と変わるところがなく、学校という鋳型にはめられ大量生産された人間はみな同じ音色である。
それに関しては許されもしようし、現に許されている事であれば傍から兎や角言うつもりはない。問題は学校という鋳型に合わない者は、問答無用に不良品として弾き出されてしまい、社会に対して影響力を得たり、指導的地位を得る事がないよう徹底的に排斥される現実だ。
外れ者となってからは所謂アウトサイダーとしてその後の人生を送るしかなく、生きにくい事この上ない。これはなった者にしか分からない辛さがある。
アウトサイダーが途中で折れて、体制に媚びた成れの果てが暴力団で、警察の下請け位しか使い道がないので終始使い捨てにされている。それでも彼らに云わせると自分達はアウトサイダーであり、体制に与していないらしい。
それなら戦えばよい、我々のように、体制に巣食う連中とそれを守護する警察や軍隊と戦えばよい。暴力を以て戦うのではなく言論を以て戦い、日々の生活を通して戦うのだ。
だが暴力団は警察や軍隊とは絶対に戦わない、戦うふりはする、そして彼等が本当に戦う相手は常に一般市民で、それも数や武器に頼っての弱い者いじめが彼らの戦い方だ。
これをアウトサイダーとは言わない、道を外れた外道と云う。一方、大多数の残された者達は正規品と見なされて、いよいよ教育が始まる。等質化と均一化に向けて各々の努力が奨励され、洗脳の進捗を量るために試験なども実施されるようになり、成績が悪いと出来の悪い部品と見なされる。
一体全体に何処の誰が、此れ程までに馬鹿馬鹿しい生き様を開発し、他人の強要しているのか、不審に思わない者は居ないはずである。
其のシステムを開発し運用している者は確かに居る、居るには居るが、最終的には大多数の者が風鈴に成る事を喜んで選択するのだから、いまさら運用者の意志と風鈴の英断にケチをつけるのも何だか口惜しいし虚しいし馬鹿馬鹿しい。
確かにシステムを運用する者、そして運用される者に共通する特徴、他人と自分の人生を丸ごと無駄とする勇気と努力の有る事は認められる。認められるが、与えられた万象の全てを無駄とする者に未来は無い。此れ程まで自分にも他人にも罪深い生き様は無いと断言できる。
今日、アマゾンの地に病んで有るのは、幼いころ風鈴にだけはなるまいと決意した、人生で最初の決断があったからである。
其の当時、世はベトナム戦争の最中であり、一朝事あるたびにアメリカへのご機嫌取りに駆けつける日本の政財界がベトナムへの侵略戦争を支持して其のお零れを頂戴しようとして必死であり、また政財界の滅殺を望む人々が勢力を大きく伸ばし、売国政策との対立が激化の一途を辿り、それとは別にどっちつかずの、寄らば大樹の陰を信奉する一般大衆が膨大に存在して、少なからぬ国の場所を塞いでいた。
いまだ幼く、就学前の一児童にしか過ぎなかった私は、遂に絶好の機会が訪れた事を悟り、単身小樽港へと赴き、一番大きな船を選んで錨を上げて出港し、平然とベトナムに向けて出港した。まだ五歳位の頃だった思うが、当時の世相と比較しても、割と無鉄砲な決断だったように記憶している。
アメリカ兵の一人も叩き殺してくれようと決意して行動に出たのだが、港を出て直ぐに捕まったのは無念であり、もし拿捕されていなければ、以後の人生に於ける展開は今とはまた違ったものになる可能性が大いにあった。しかし、兎にも角にも一度はアジアの同胞の為に立ったという思いだけは今も確かに残っている。五歳児にしては大ごと過ぎる事件なのでニュースにもならずに済んだが、しかし直ぐに私は近所に出来たばかりの清涼飲料水の工場を襲っている。
アウトサイダーにも内向的かつ繊細で、精神的なアウトサイダーを標榜する者もおれば、外向的かつ攻撃的で実力行使をこよなく愛する者もあり、その内実は多岐にわたっている。
そういう訳で、いつも私達が遊んでいる原っぱに目を付け、元々は日本国に於ける立派な国有財産であり、地域に於ける共用の場として極めて有効に活用されていたモノを、手前勝手な屁理屈を付けて簡単に盗み取ってしまい、見るも忌まわしい邪悪な工事を開始して、気が付けばいつの間にやらしれっと操業を開始した工場に対し、爆発的な激情に駆られるのは何も五歳児ばかりの特権ではないはずだが、行動に移す者は他に誰もいなかった。
小樽の件で知恵を付けた私は日を選んで夜中に工場へと侵入し、拙い力を振るって目に付いたハンドルを片っ端から回して歩くと、狙い通り洪水のように溢れ出した清涼飲料水を眺めてすっかりと気分も上々になり、さっさと工場を後にしてベッドへ潜り込んで熟睡したが、これはさすがにニュースとなった。
ちょうどコカコーラとペプシコーラが日本市場を独占しようと血みどろの戦いを展開していた時期に当たっていたために、その線で報道もされ、アメリカに対して遠慮ばかりしている日本の警察は、ろくに捜査もしないでこの件を終わりにしてしまった。
だが工場はより屈強に作り直されて操業を開始してしまい、結局一人では何をするにしても焼け石に水としかならない現実を此の時に思い知ったのだった。しばらくすると、襲撃事件に関するニュースの続報があり、其れによると私のゲリラ的破壊行為は立派な行いでも社会的に正当な振る舞いでもなかったらしい。
それどころか悪質な違法行為であり、許し難い犯罪でもあったようだ。正々堂々と人の縄張りを盗んで工場を建てた連中は遵法精神に溢れ、地域に貢献する素晴らしい人々だったらしく、無知な日本人を啓蒙するために様々な慈善事業を行っており、感謝感激する日本人が工場を建てた者と其の眷属を恩人として崇めている様子が克明に報道されていた。
慈善に金を使うなとは言わない。しかし給料と税金を払ってからにしろや、という報道はなかったようで、あくまで工場を建てた連中のお恵みに感謝している日本人が重要だったようだ。
よその国なら給料と税金を以て利益の全ては最終的に国庫へと入り、選挙で選ばれた議員が国民合意のもとで其の使い道を決める。作られた金はすべて国民のものだから、その使い道を決定するのは国民になるのは当たり前だ。
日本では何故か、利益が工場を作った連中の手元にそのまま残り、日本人は其のおこぼれを有難く頂戴して生活する事を好んで、他のまともな生き方を明確に拒否してきた。
つまり日本人は人というよりも、極めて家畜に近い本質を生まれながらに所持していると断言できる。確かに日本では其れがよいのであろうし、日本人に相応しい方法である事は広範な国民の圧倒的支持を得ている事実からも容易に理解出来る。
しかし世界の人々は日本人とは違い本当の人間である。彼等が日本人の生き様を判断するのなら、全ての人倫の規範に反する下賤なやり方であると考えるのは間違いない。
日本が鎖国でもしておれば問題はないが、しかし世はグローバル、しかも日本は貿易立国らしいから、お零れ頂戴方式が日本人には相応しくとも、周辺諸国にとっては実に大迷惑な話だ。
大迷惑どころか日本だけでは飽き足らず、第二次世界大戦を起こして中国、台湾、朝鮮にまで、お零れ頂戴方式を強要したではないか。工事の経営者は自分達が作った工場であり、所有しているのも自分達だから利益は自分達のモノだというが、工場の存在する要件は全て日本国が提供したものだ。しかも彼等を経営者に資本家にさせた資金の全ては国民から盗んだものではないか。
明治維新に際して新政府とグルになり、江戸時代の国民資産を私して財閥となり、自分達が送り込んだ議員と組んで、機会ある毎に徹底して税金を盗み続けたではないか。議員も身内なら軍隊も警察も身内、裁判官から新聞社まで、全て財閥の身内ではないか。
馬鹿の考え休むに似たり 弐
彼等財界人とやらは自分たちの才覚で成功したらしい。確かに第二次世界大戦を利用してアジアの同胞を虐殺し、のみならず自国民まで弾圧し殺害したあげくに其の全ての財を奪い取り、戦時利得者として更には敗戦利得者として其の持てる才覚を存分に発揮して彼等は成功し、以前にも増して更に強大な資本家となった。それは間違いない事実である。
彼等は事あるごとに煩く口走る、「自分達には人より優れた才覚があるから成功は当然の権利だ、人より優れた我々は無能な連中を養分とし搾取する権利がある、無能な輩が我々の為に飢えて死のうが戦火に焼かれようが其れは無能の報酬なのだ」と、それならば無限の才覚を所有する第三者が現れて成功し、無能な才覚を誇る財閥と資本家を一人残らず処分しても、彼等は喜んで其の運命に従うのであろう。
まさかキチガイではあるまいし、いよいよ自分達が処分される番になって「私たちは間違っていました」とは言うまい。
必ずその有能な第三者が現れ、彼ら資本家を財閥を全て駆除して、奪われたアジアの財と日本の財を全て人々に返し、成功者となってアジアに君臨するであろう。我々がいくら其の第三者を止め立てしようとも、正義は第三者にあるのは明白、不可能だ。
あなたやあなた方が其の第三者にならぬよう、微力を尽くす為に我々はやって来たのであり、もともとは単なる雑魚で、役が終われば何処かへ消え失せるだけの存在だ。
それにしても、この歳になってようよう思い知ったのが、才覚や才能とは集団の英知が個人に結集した現象を指すのであり、個人の資質や努力は其の才能へ至るための一つの門のカギに過ぎないという現実だ。
我々の身体は両親と其の属する集団から与えられたモノだ。言語を習得できたのも両親と其の属する集団のおかげである。勿論、全てタダで手に入れたモノだ。
我々がこの世に生まれる時、人間として存在する要件の全ては無償で提供される。金を払って産まれて来た新生児の噂は聞かないから、例外は無いだろう。
同様に今生で得たモノは、まだ目の黒いうちに全て集団へと無償譲渡しておくのが人間社会のルールだ。
びっくりするほど下手な書に、暇を見つけては、向上の可能性を今も私は探っている。虚仮の一念岩をも通す、で不味いは不味いなりに少々の評価らしきものを得るようになった。
私は小野道風にも藤原佐理に於いても、ビタ銭の一文たりとも払ってはいない。勿論、小野道風にも藤原佐理に於いても、先達である空海や橘逸勢に対して、其の廟前に餅の一つも置かなかったことは確実であり、また空海や橘逸勢にしても、へたに感謝などされたら迷惑に思うばかりであった事、これもまた確実である。
私の全てはタダで成立している。だから私の生み出すモノは全てタダで集団に還元する。この当たり前の事が出来ないようでは人間失格であり、集団に対する報恩である布施という行為を為さぬ者は世界に居所がなくなる。
ただ、ひとつ心配なのが「貴方の書に深い感銘を受け、おぼえず感謝の念に耐えかね其の印を表しました。ご迷惑な事とは存じますが、どうか此方の心を汲んで受け取って欲しい」その様な事態を招いてしまう事で、熱心な懇請をあまり断るのも失礼に当たるし、相手に対して気の毒である。何より謝意の念に苛まれたあげく、大切な心身を損ないでもしたら大変であるから、機会に至ればその思いを汲み、感謝の思いに乗せられるのも、これはこれで立派な人助けではないか、そう考えている。
馬鹿の考え休むに似たり 参
その後、ありとあらゆる機会を以て、特にテレビやラジオなど、当時に於いては時代の最先端を行く技術を総動員して、これでもかとばかりに、お零れ頂戴方式に法律上の問題がないことばかりが報道された。そして一番重要な問題がないことが問題だという事実は全く報道されなかった。
現行の法律を作成したのは財閥であり工場を作った連中だ。国民が財閥の代理人ばかりを選良とするのだから馬鹿馬鹿しくも当然の帰結といえる。
資本家共は朝から晩まで法律法律と小うるさく連呼するが、彼等資本家が自分自身で作った法律であるからには遵法精神に溢れるのは当然の話だ。
最後の仕上げとして自分達で作ったニュースを自分自身で流し、他日の資料にでも供するつもりなのか、日本人の反応を観察しようとは小賢しい奴等だ。
しかし結果は一目瞭然、僅かばかりの銭と雇用を与える代わりに地域社会を破壊して様子を見たら、以外に好評だった事は直ぐに分かったはずだ。つまり風鈴モデルは立派に機能しており、日本人に頼りにされ信頼を得ている日本人の日本人による日本人の為のモデルと云える。
そして其のニュースであるが、一幼児にしか過ぎなかった低劣で稚拙な私の知性に於いても呆れ果てる内容の連発なのだ。第二次大戦が終わったばかりであり、放送技術の未熟や電波放送の経験不足など原因はいろいろとあるだろうが、それらを差し引いても見るべきものは何一つなかった。きっとニュースという存在そのものに対する見解が視聴者と制作者との間で相容れずに対立しているのだろう。
しかしよくよく考えてみれば、彼等製作者に於いては普通一般の日本人にも理解出来るまでニュースのレベルを下げなくてはならない義務がある訳で、思い返してみると彼等なりに苦心して作り上げた節が随所に見受けられ、特に普段のメッセージに付帯する衒学的でスノップな態度は僅かな痕跡すらとどめておらず、それがために全体の印象としては全人類に対して生真面目にケンカを売るような出来上がりとなっており、非常に悲しい事ではあるが、相手方に殆んど知性が認められない場合、騙すよりは本当の事を教える方が余程に大変らしい事例のあることもある現実が理解されて、見なければよいものを、ニュースのたびにズッコケる仕儀となった。
日本だから良かったものの、他の国では私の様に親切な対応は不可能だ。
嘘を吐く仕事・壱
其の後、15年程も経ってから地元の有志が調べ上げ、件の清涼飲料水の工場とは一体全体どの様な存在であったのか、不完全ながら其の全体像が明らかになった。
まず援助金の拠出を前提にして、工場の経営者に対し事業の進出を要請した事実と経緯が確認された。何のことはない外資が強引に進出してきたわけではなく、こちらから頼んでいたわけだ。
では一体に誰が頼んだのか。それは地元の選良、行政及び商工会議所が主体となり行われていた。盗人を捕らえて見れば我が子なりで、随分とアメリカに憤っていた自分がミジメである。自らの不明を恥ずるしかない。
有志は情報公開法による開示請求を行っていたが、件の資料に関しては既に廃棄されている事を知って驚き、他にも随分と探したが結局は見当たらず、仕方がないので正確な金額はまるで分からないが、前後の予算の推移から相当な金額の動いた事はまず間違いないことを突き止め、ついで役人による公文書の扱いが極めて反社会的かつ恣意的である可能性をも示唆する事に成功していた。
国民による議会政府の監視がなければ民主主義は成り立たない、その際に行使される方法は行政文書閲覧が最も迅速かつ確実のはずであった。
然るに其の文書を廃棄したとは、如何に物の道理に疎い世を拗ねた外れ者といえども、天下国家に対する大罪であることは理解に難くない。なればこそ、さほどに刑罰が重くもなく、一度くらいならやってみたくなる※文書等毀棄罪が存在している。
※(公用文書等毀棄) 第258条 公務所の用に供する文書又は電磁的記録を毀棄した者は、3月以上7年以下の懲役に処する
(刑法258条は主権者である国民の共有財産としての公文書を健全な民主主義の根幹を支える知的資源として其の価値と効用を保護する為の規定とする)
「何事もまず疑ってかかれ」有志の調査に絶対の信を置きつつも、生来の疑り深い根性悪、ケチな小者で卑しい小心者という地が出てしまい、とうとう我慢できず私に於いても見様見真似で不細工な、しかし恐ろしく強引で執拗な調査を開始したのだった。
15年という歳月は、ただでさえ手に負えなかった乱暴者をより狂暴に育て上げており、其れだけなら未だしも、事情をしらぬ余人に対しては常に慇懃で謙虚、おとなしく生真面目な好青年を演じ切る卑怯ぶりで、時には繊細かつ複雑な心象をさももっともらしく吐露して周囲の人々の同情や共感を欲しい侭にする、非常に悪質な処世術を完全に修得させる一因となり、また平和に暮らす一般市民の直ぐ横に、恐ろしい人の皮を被った怪物を、誰知らずひっそりと世に送り出す事を可能としていた。
調査は順調過ぎるくらい順調に進み、目新しい事はまるでなく、あったとしても必ず不開示情報となっており、文書全体の黒塗りに次ぐ黒塗りは、哀れ担当した役人の知性に比例している事は勿論、現状に拱手傍観を望む国民の知能の程度というモノをも明確に表示する結果を生んでおり、ここまできたら「ああ、もうどうしようもないな」と綺麗さっぱり、諦めるのが最も懸命な選択肢と思わせるモノが確かに其の黒塗りにはあった。
それのみか役所というものが社会の維持に必要な公的業務を国民の税金を以て委託する機関から、役人が社会に対して寄生する其の必要な権限の全てを国民の税金を以て確保する奇妙な機関へと変貌を遂げている事実が理解されて、多少の寄生は日本人の本性として仕方のない面もあるが、現状を見る限りに於いては多少の寄生どころか完全な寄生虫としての進化を完了させており、それが為に必然、役所には新たな特権である寄生虫の存続と維持そして繁殖という役得が生じており、ついでに「人を助けるならとことんまで」寄生虫といえば大先輩にあたるベテラン中のベテラン、資本家や議員と相計って、社会そのものを寄生虫の為の巣穴と成す事に随分とうまく成功してしまい、新たに生まれた権利に生ずる新たな義務、その義務の証としての公文書の塗りつぶしを非常なる熱意を以て当たっている事が知れてゲンナリしたのであった。
それにしても小役人共は自分に都合の悪いものを塗り潰し平然としているが、ついでに自分自身の未来をも塗り潰している事実には気が付かない、それもこれも当今流行りの先送りと自業自得で済ますつもりなのだろうか。
「まあ古い話ではあるし、関係者もほとんど死に絶えたろう、このあたりで全てを忘れ去ってしまい、将来に発症するかもしれない健忘症の予行演習だ」と、水に流し全てを忘れ去って幾星霜、或る日つまらないニュースが目に留まった。
金融庁の老後2000万円問題の報告書に関する予算委員会の集中審議を野党側が求めたところ、与党の国会対策委員長による「この報告書はもうなくなっているので、予算委員会にはなじまない」発言が飛び出したのだ。金融庁の発表が2019年6月3日、国会対策委員長の発言は同年6月12日。どう考えても先に述べた、刑法258条に該当する行為でなかろうか、もしこれをも該当しないとするのであれば、今後我が国に於ける如何なる公文書破棄も刑法258条に該当せざるものとして処理されるだろう。
それにしても、予算委員会どころか、ヒト属の如何なる分類にもなじまない与党の国会対策委員長とやらを、一体全体に誰が選良としたのであろうか、少々不審に思ったが、考えてみれば此の国は不審の上に成立している訳であるから、つまらぬことをグダグダ考えてもしようがない。
ついでに事態を折角の機会として捉え、機会を奇貨として喜ぶ方針へと感情をも切り替えると、さらに奇貨を奇貨として果たすべく、再び因縁の調査を開始する事こそが、いつまでも事ある毎にぐずぐずと、かつての恨み事に不平を鳴らす、過去と決別できぬ女郎に成り下がった男に対する、適切な罪と罰になるであろう事を直観した。
さて、折に触れては嘗ての無念を思い出す、露呈した自分の女々しさにすっかりと失望しながらも、当時の関係者を逆恨みする事でやる気を励まし、何とか調査を開始した。しかし件の工場に関しては如何に手を変え品を尽くし様々に策を弄しても、国はハッキリと全然ダメで、さっさと見切りをつけてしまい、対象を地方自治体に変更すると、以外にもごっそりと資料の出たこともあり、様々な事が分かった。
件の清涼飲料水の製造工場に於いては、その建設に当たって先に述べた通り血税からの援助金を受けて工場を建設しており、しかも土地の無償提供を受けたあげくに税金は免除、土地を盗られた我々には端金が与えられただけであった。
そこまでいくと遅ればせながら記憶も少々蘇り、工場を誘致したのは人々に選ばれた選良である事にやはり間違いはなく、その選良は援助金の一部を自分の懐に入れた事実を誇りに思っているらしく、選挙の度に其の功績を吹聴して止むことがなく、下手糞な義太夫風のだみ声が流れて来る度に、どうにかして落選させてやりたいものだと、幼いがために実行には移せない様々な方策の巡らせたことを懐かしく思い出したりもしたのである。
バカバカしい限りだが、調査を再開した途端に工場は売りに出され、経営者達は更に莫大な援助金を支払う地へと移っていった。残された工場は選良の身内がただ同然で手に入れており、全ては最初から絵が出来ていて、後の事はただ計画通りに遂行されていた事実を私はやっと知った。
ただ一つ、私の小さな反抗がイレギュラーとして彼等の財布を少々は痛めもしたが、それすらも迅速に補助金で補われた事実を知って、その卑劣さと厚かましいに驚きを禁じ得なかった。
幼い頃、私の成した所業の数々は確かに善ではなかったろう、しかし小さな悪を以って巨悪を討つ事は決して起こり得ないこと、そして如何な巨悪と謂えども、其処に善が有るのなら其の善が如何に小さなものであっても、悪の勝つことは不可能であり、巨悪にできる事は問題の隠蔽と先送りだけである事を遅ればせながら思い知ったのだった。
問題の隠蔽と先送りは必然に巨悪を肥大化する、肥大化を為したということは其の存続のため、更に問題を隠蔽し先送りしなくてはならない、このイタチごっこが終わるのは社会に巨悪を存続させる容量が不足または消失した時だ。
だからこそ、巨悪は自らの存続を図るため、定期的に身内を粛正して巨悪自身のスリム化を図ってきた。人間社会に於いて自分達の存続を可能とする其の可能性の最大値を常に試算して、その値が限界を超える寸前、最も無能な身内を処分することで巨悪自身の存続を可能としてきた。
端から見ると随分とバカバカしく無駄な事をしているようだが、彼等にとっては最も重要な業務であり、計算に誤りがあっては即ちフランス革命の再来で、巨悪本体が皆殺しとなってしまう。
いま世界全体に於いて動乱期を迎えているかの如く考えている人々が次第に増えてはいる。しかし何の事は無い、ただ巨悪による間引きが始まっただけであり、日本国の上級国民がその最初のターゲットに選出された訳だが、これぞ本当の自業自得であろう。
しかし自業自得である事に間違いはないが、盗人にも三分の理、今度ばかりは我等が上級国民に於いても、些かばかりに物申す権利があるのではないかと思える。何故ならば、あれほどの長年にわたる徹底した卑屈さと忠誠を以てすれば、いくら情け無用の巨悪に於いても、せめて履き潰したボロ靴を投げ捨てるくらいの一瞥の感慨はあって然るべしと思えるからだ。
我等が上級国民も同じ思いだったらしく、各方面に散らばる巨悪に対して実に多種多様な、ほとんど痛ましいばかりの陳情を開始しており、運良く第三者と成り果せた同族同類の同情も集まり、死中に活を果たそうとする意気も軒高のようで、また絶望の中に於いてさえも意地を通そうとする姿はいぢらしくも悲しみを誘い、そうなると此方としても長年の敵には違いないが、考えてみればそう大した敵というわけでもないし、まんざら知らぬ間柄でもない、会えば顔を背け乍らにでも嫌々の挨拶くらいはする訳で、さすがに表立っての応援という訳には行かないが、茶々が入らぬように気を利かすくらいの事はしても良いだろう、という次第になった。
一方、上級国民達の陳情は手を変え品を変え依然として盛んであり、自分たちが今までに成してきた巨悪に対する莫大な上納金をアピールすると共に、集金マシーンとしての価値を論じて食い下がり、「世にも珍しい、大切な金の卵を産む鳥を、簡単に殺すのは馬鹿げている」何処かで聞いたような昔話まで持ち出して粘りに粘っていた。
これらの陳情は「鳥にも劣る、汚らわしい日本猿の分際で僭上も甚だしい」と、最終的には手酷く一蹴されて終了したが、そのくらいは予想の範疇だったらしく、次いで「無能という謂れ無き理不尽な称号を冠され、ボロ屑の如く廃棄される事となったが、長年の功績は他のどの様な国の上級国民にも引けは取らないはずなのに、何故に粛正を定められたのか納得できない」と、新たな視点からの意見を申し立てた。
しかしこれまた残念ながら「他の国の者共は人間である、お前らは人ではない」何等の進捗の跡も見られず、再びあっさりと一蹴されている。
状況がこちら側にまで丸聞こえであるからには、我等が上級国民達に於いては相当のすったもんだのあげくに色々と悪足掻きを尽くしたに違いない。そして此の時点に於いては、いくら上級国民が性悪ではあっても、同じ日本人であるのなら、誰だって同情を禁じ得ないであろうと確信する。
最早之まで、諦めるかしかないだろうと見ていたら、さすがは我等の上級国民である、「定年制と年金制度を止めにして日本人を死ぬまで働かせる法律を制定したし、移民や派遣を増やしてただ働きさせる事になったので、自分達への処分を取り消して欲しい」と、再び三度に巨悪へ懇願していたのだ。
つまり「巨悪を存続させる容量を増やしたので、何とか自分達を見逃して欲しい」と、伝家の宝刀である売国を持ち出し巨悪にお願い申していのだ。
巨悪は巨悪であり、どんな惨たらしい悪事にも平然と事を為してきた連中であるが、其の巨悪にしても此れ程までに無様で惨めな申し出というものに際して一驚を喫したらしく、随分に色々と取り沙汰されたらしいが、結局のところ我等の上級国民達の要求は全て了承されて幕を閉じている。
きっと上級国民達の奇策が功を奏したのであろう、我々はそう考えていた。しかしせっかく閉じた幕がまた再び開くこととなる。他ならぬ巨悪が約束を反故にしたからだ。
「無論、我等に於いては日本猿が如きの契約を履行する義務は生じ得ない。朝貢は受け取ろう。恩賜として自国民による誅殺の受け入れを命ずる」
馬鹿馬鹿しいことに、全ては最初からの予定であったのだ。巨悪にとって我等が上級国民達の為す事は、何もかも全て織り込み済みであり、折角の機会を活かして茶番に付き合い、少しばかりの余興を楽しんだだけだったのだ。
その返礼として、日本人に間引きを代行させるのも面白かろう、そう考えていたとは、出す反吐でさえ躊躇われるほどの邪悪さである。それにしても悪の下僕の末路はいつも哀れで悲しいと分かり切っているのに、なぜ敢えて其の道を選んだのか、一生を代償にして得た報酬が侮蔑と憎しみばかりでは割に合わないと思わないのだろうか、不思議ではある。そして更に不思議なのは、我等の上級国民達はまだ全然に諦めていない現状である。
しかし之に関しては最早これまで。悪と其の子分の顛末など、道端の犬の糞にも劣る存在であるからには、わざわざ手に取って眺めるのは愚の骨頂、同じ穴の狢という事になる。手前勝手に滅んでしまえ、というのが我々の結論であり正解だ。
嘘を吐く仕事・弐
彼等資本家は全てを人々から盗む事で存在してきた人類に巣喰う癌であり、随分と永いあいだ人類に寄生して生きてきた忌まわしい害虫だ。彼等資本家、経営者の言い分はいつも同じで、我々は経営だけを、特に利益の配分だけを考えればよい、その他の雑用は使用人と労働者の義務にすればよいだけの話だ、我々が手を汚す必要は無い。
しかし全ての労働者と使用人が断ったらどうするつもりなのか?彼等の要求を全てを無視する人々が現れたら、そのような人々が全人口の殆ど全てとなったらどうするのか?そんな事はあり得ないと彼等は言うかもしれない。
しかし過去に於いて、一国の国民の全てが彼等の存在を無視した史実があるではないか。全ての人々が彼等資本家を無視したとき、彼らがとった行動は、自分達の忠実な下僕である軍隊や警察を動員して国民を弾圧・強制労働に追いやったではないか。
フランスやイギリスを皮切りに世界中で革命の嵐が吹き荒れ、最終的には彼等資本家どころか前世紀の遺物として生き残り続けた王侯貴族に至るまで、その殆ど全てが国民により殺され滅び去ったではないか。彼等資本家はそれでよいかもしれないが、害虫を駆除する身にもなって欲しいものだ。
日本では革命が起きなかった代わりに東京大空襲があった、連合国が日本の支配層を皆殺しにするのは簡単だったが、しかしそれでは、直ぐに第二第三の資本家、経営者が生まれてくる。
資本の経営者を生み出し、その存在を許して、あまつさえ戦争まで引き起こした資本家達を後生大事に育て匿う、その元凶たる東京の日本人を皆殺しにして、後の様子を観察しようとしたのが東京大空襲の一つの目的であり本質なのだが、何故かその史実が報道される事はなかった。
そして、日本の全てを独り占めしていた日本の資本家連中の殆どは死に失せ、邪魔者が消え失せた日本は奇跡と言われた大復興を遂げ、1960年代から1985年頃まではジャパン・アズ・ナンバーワンを謳歌したが、その陰でひっそりと蛆虫となり生き残っていた連中が戦時利得者から敗戦利得者として羽化してしまい、とうとう資本家として完全に復活を遂げ、全ては元の木阿弥となってしまった。
今日、日本が世界中から馬鹿にされ、最も汚らわしい民族として侮蔑の対象となっているのには、それなりの理由がある。
滅び行く国・壱
其の日なんの前触れもなく、近在の幼児達にとっては憩いの場であり、娯楽の中心地でもあった原っぱを追われた私は、我を忘れる程の激しさで怒り心頭に発していた。各々に程度の差があるにはあったが他の童子達に於いても事態を安穏と看過するつもりはなく、地域児童達の間に不穏な空気が流れた。
童子達はいずれも就学以前の五〜六歳児が多数を占めたが、時折は学校をサボって遊びに来る者もおり、手製の木刀を振り回しながら川沿いの草地を荒らしたり、集団で原野を疾走したりして、日々を遊び暮らすのに夢中であった。
工場の出来た場所は水や食料の補給に都合がよく、何より軽石合戦を行う貴重な戦場であった。我々幼児達は戦時復興の為に持ち込まれた軽石に目を付けており、その汎用性に注目していたのだ。
日を経ずして件の軽石が投擲に適しており、夏には実現不可能な雪合戦の代用に成り得るブツと結論が出てしまうと、それからは堰を切った様に軽石合戦が始まり、決まり事は雪合戦と同じだが、玉が投げやすく、雪とは比べものにならない格段のスピードに我々は喜び、その命中率の高さに夢中となっていった。
毎日毎日、仕入れた軽石を持ち寄り、原っぱに集合して敵味方に分かれ、石をぶつけあって、終日飽きるという事がなかった。合戦を開始すれば石はどんどん減っていくが、飛んできた分を補給できるので戦いは次第に消耗戦の様相を呈してくる。
軽石とはいえ当たれば無事では済まないし、石も散逸する事が多くなり、用意していた軽石も次第に底を尽き、手傷も増えて、いよいよ総攻撃に移る頃合いを迎えると、双方ともに雄叫びを上げながら敵陣に突っ込み、合戦の最後は常に壮烈な殴り合いに発展するのがお定まりのパターンで、遂には敵味方ともに大ダメージを受けてようやく解散するのだった。
第二次大戦が終わったばかりで敵は相変わらず鬼畜米英であり、今度は負けたが次は必ず勝つ事を誓った傷痍軍人が街にあふれ、アメリカがベトナム戦争を始めたので人々はみな北ベトナムへ支援を開始してベトコンの戦況に一喜一憂し、戦局は次第にアメリカの敗勢となっても米兵は撤退をせずに膨大な武器を無駄使いして居座り続け、結局アメリカの国庫の金は殆ど軍産に移行しまい、思えばアメリカ崩壊の序章はこの時であったなと後に思い起こしたりもし、こんなに馬鹿な大人ばかりでは、何が何でも生きる為には戦うしかない現実を、我々は幼児とはいえ目の当たりにし、また決意して生きて来たのだ。
結局、工場を排除する気分に満ち溢れていたのは、私と近所の遊び仲間だけであり、工場の出来る前の生活を惜しみ、畑を作り豚や牛を飼っていた頃を懐かしく思い、馬や羊のその後を心配していたのも子供達だけであった。
大人達を使嗾して工場勤めを止めさせようとしてみても、本人達にその気が無いのだからどうにもならない。工場を作った連中は定期的にニュースを流してバラ色の未来を約束するが、それは工場を作る事に成功した連中の未来であり、工場が出来た地元の未来ではない。それ以降、私は慎重な男となった。
小学校の入学式、校門の忌まわしい作りに嫌悪感を覚え、これはベトナム戦争を起こした奴等の使用人、骨の髄まで奴隷根性が染みついた下僕どもが作った物だと確信し、この中では清涼飲料水の工場と同じように生徒が作られていく事を悟り、何があってもどんな事が待ち受けようとも、絶対に奴等の思う通りにはならないと誓い、まだ幼い身空でもある事だし、慎重に行動しなくてはならない事を確認したのだった。
洗脳された人間というものは、洗脳された事実に対して気付くという事がない。洗脳されている現実を指摘されても怒るばかりで理解する事が出来ない。理解できるなら洗脳は失敗だ。
洗脳され芸を仕込まれた人間の使い道として最も相応しいのは会社の従業員で、作られた人間は決められた事を命令通りに実行するし、自分で考える事が出来ないので、労働の使役者として扱うのに適している。
これは余程の馬鹿でもない限り誰にでも分かる仕組みだ。だからこそ日本国は義務教育を国是としている訳だが、幸か不幸か此のモデルはだいぶ前から古くなってしまい、今となってはもう使いモノにならない。
グローバル化が行き着く処まで行ってしまい、自壊を起こし始めて、国と国の実力勝負が始まり、勝敗の帰趨は国民一人一人の知力の底上げにかかってきたからだ。早い話が知力の総力戦が始まり、一人でも多くの賢い国民を輩出した国が次世代の国際社会の覇者となる時代が来た、そういう現実が起こってしまった。
グローバル化が始まった時点から、必然的に其のシステムは崩壊の因子を内包している事実を様々な人々が指摘してきたし、崩壊が現実のものとなるのに余り時間がかからない事も予想されていた。そういう事態に備えて、惜しみなく国民の知的レベルの上昇に税金を注ぎ込んできた国がここへ来て大きく伸び始めた。反対にそういう現実が理解出来なかった国は落ちぶれて行く一方で、零落した事を隠すために小役人どもが公文書を改竄するなどして誤魔化していたが、捏造がバレてしまい、自らを以って風鈴モデルが崩壊している事実を証明する事となった。
当たり前の国ならモデルを刷新して、出来した事態に対応可能なモデルに作り直すだろうし、国家の最優先事業にでもして、ダメージを最小限に止めようとするだろうが、そこは風鈴の悲しさ、崩壊したモデルを作り直す能力も資格も権利も無いのだろう、モデルが崩壊したという事は資本主義が崩壊したと同義語であるから彼等にとっても大ごとのはずだが無為無策のままに放置するしかなくなった。
これこそ自己責任以外のなにものでもなく、そのあたりの事がよく分かっているがために、彼等やその眷族は他人対して自己責任を連呼して止む事がない。自分の無能や失敗を他人のせいにして恥じる事もない其の生き様は人間としての成立条件を満たしていないが、元々は風鈴にしか過ぎないのだから仕方がないと云えば仕方がない。
古くて使い物にならない型から次から次へと生産される者は当然ながら全て不良品だ。つい此の間までは型にハマらぬ者が不良品であり、社会の不適合者であったが、今では人生の相当な期間を教育に費やし、熱心に学んだ者の全てが、卒業したら不良品になっているのだから大変だ。
本来なら大ごとのはずだが、周りも全て不良品なのだから、無為無策のままに国そのものが不良品としてやっていけば良いと考えているのだろう。
ところがどっこい、風鈴システムの運用者達は全く別の事を考えていた。少し知恵の有る者なら誰でも考え付くであろう廃物利用の徹底である。崩壊が避け得ぬのなら、後はもう有効な廃物利用を徹底的に効率よくヤル方が得策である。少なくとも私が資本家なら必ずそうする。だいたい明日の暮らしの見当さえつきかねる、知恵の足りない朴念仁が考え至る事を、欲の権化たる資本家が見逃すはずもない。
そういう訳で日銀を使って株価を維持し始めた。そんな事をすれば日本株を持っている国外の機関投資家共に対して売り抜けを激奨するも同然であるが、廃物利用だから当然である。
何しろ株価が下がる度に馬鹿の一つ覚えで必ず日銀の買いが入るため、売り抜けや空売りが自由自在となり、投資家に対して日本の金を至極簡単に其の懐へ捻じ込む結果となってしまうが、これも廃物利用だから当然である。
その大変に珍しい行動様式がいつもの様に世界中の失笑を買ったが、廃物利用だから当然である。鮮やかに日本人の判断力、決断力、実行力を遺憾なく際立たせた事例となったが、廃物利用だから当然である。
勿論、私も尻馬に乗って三年分くらいの小遣いを得たが、やはり廃物利用だから当然である。
日銀のやった事は極めて控え目に考えても、日本国に対して巨額な損失を与え続ける、立派な売国行為であった訳だが、これもまた廃物利用だから当然である。
しかし第二次世界大戦に於ける反省から、日銀による国債の直接引き受けは禁止されているため、一体全体にどういう風を以って買い漁っているのか、少しは知りたくなるのが人情というものだ。
………日本銀行【https://www.boj.or.jp/】より抜粋 – 日本銀行における国債の引受けは、財政法第5条により、原則として禁止されています(これを「国債の市中消化の原則」と言います)。これは、中央銀行がいったん国債の引受けによって政府への資金供与を始めると、その国の政府の財政節度を失わせ、ひいては中央銀行通貨の増発に歯止めが掛からなくなり、悪性のインフレーションを引き起こすおそれがあるからです。そうなると、その国の通貨や経済運営そのものに対する国内外からの信頼も失われてしまいます。これは長い歴史から得られた貴重な経験であり、わが国だけでなく先進各国で中央銀行による国債引受けが制度的に禁止されているのもこのためです………抜粋終了
直接引き受けをしていないくせに、国債発行残高に占める日本銀行の保有比率は約43%(2019年)にのぼる。これは第二次大戦開戦直後(1940年)に日銀が保有する約14%を上回り、終戦を迎える1945年の5%とは比べものにならない保有率の高さである。
いくら廃物利用とはいえ、まさか率先して法を守り、範を垂れるべき立場にある日銀が、法の網をかいくぐり或いは逆手にとって、姑息で小狡く卑怯な方法を採るはずもないし、日銀にとって最も重要な財政法の規定を反故にしてしまうセコイ裏技を使う事もあり得ない、一体何をどうしているのか、訝しく思っていると、ごく普通に市場から調達している事が分かった。
直接引き受けを禁止にしたのは日銀の国債保有率を下げる為であり、直接引き受けを禁止する為に直接引き受けを禁止したのではない。人殺しは法律で禁止になったから、他人に頼んで殺してもらった、これが今の日銀の態度である。
それにしても日銀が犯罪者に対して範を垂れている事実に気が付かなかったのは未熟者の誹りを免れ得ず、全くもって私の不徳の致すところであった。
国債をジャンジャン買い取り、紙幣をバンバン印刷して、片っ端から株を買い取り、株価だけは維持する行為を経済政策と云うのなら、これは馬鹿でも出来る。しかも必ず破綻して経済を破壊するオプション付だが、最初から廃物利用が目的だから其れも又当然であった訳だ。
このまま日本国崩壊まで大過なく推移すれば全てが丸く収まり、万歳三唱で幕を閉じる事になるが、まるきり不安要素が無い訳ではない。天晴れ、澄み渡った美しい日本晴れの其の向こう側、空の端に影差す忌まわしい存在が常に佇んでいるのである。
言うまでもない、日本復活である。もし其れが現実のものとなれば、彼等資本家の損失は計り知れず、恐らく破滅は免れ得ない程の被害を受けるだろう。私如きですら日本国滅亡を既成事実として経済活動を続けているため、もし此処で日本国復活が現実のものとなれば、取り敢えずホームレスは確実である。
だからこそ消費税増税なのだ、必ず経済を破壊し、国を亡ぼす決定打になり得る増税こそが、彼等資本家の精神安定剤なのだ。
滅び行く国・弐
全ての結果には全ての原因がある。其の原因を知らずして、問題の渦中から抜け出す事は難しい。日本国に於いては何故に其の経済が滅び去ってしまう結果を避け得ぬのか、其れを知るには矢張りそもそもの起こり、原因を知らなくてはならない。
資本主義が優れた社会体制とはなり得ない事実は最初から分かり切っていたし、今では人類共通の認識となった。しかし馬鹿と鋏は使いようで、どんなに良い包丁も、気違いが使えば人殺しの道具になり、腕の良い料理人が使えば旨い料理を生み出す元となる。
要は運用する国民の腕次第で如何様にも結果を変える事は出来る。つまり日本国に於いては、国民に資本主義を運用するだけの実力が無かった、と云う事実が立証され、その現実が残された訳である。
実力が無いなら無いなりに、せめて民間銀行による「信用の創造」と中央銀行による「通貨の発行権」くらいは廃止しておくべきだった。それさえやっておけば、国民がかなりの馬鹿であっても、馬鹿は馬鹿なりに何とかなった。
一国を支える元となるのは云うまでもなく其の国の通貨発行権である。通貨発行権は政府が持つのが当たり前であり、必然であり、常識だ。
何故わざわざ「政府から独立した中央銀行」を作り、その中央銀行に国の命であり、国そのものである通貨発行権を与えているのか。疑問に思わぬ者は人としての範疇を大幅に逸脱していると云わざるを得ないだろう。
………「あ~あ、自分で金を作って、それが流通したら即ち世界一の大金持ちだよな~」 普通は妄想の範囲で終わる話であるが、是を実行した者が居たのであるからドエライ迷惑だ。その男の名をウィリアム三世という………
………以下、寸劇風………
ウィリアム三世(以下ウ)「なるたけ安上りの、そうだ紙切れがいい、ただの紙に印刷して其れを通貨にしてしまえば世界を手に入れる事だって出来るだろう。問題はそれを何処の誰にやらせたものか、とんと見当もつかん事だが、まずはヤツに相談だ、ウイリアムに」
このイギリスの国王は知恵袋として、スコットランド人のウイリアム・パターソンを重用しておりました。そして運がいいのか悪いのか、パターソンはとっくの昔に答えを出していたのです。パターソンは民間の銀行に通貨の発行権を与え、その銀行に独占して通貨を発行させ続け、政府はその銀行から借りたいだけ金を借りる方法をウイリアム三世に提示しました。
ウ「よい方法に思えるが、何か重要な事実を見逃しておるように思える」
パターソン(以下パ)「さすがで御座います。世にも名高き名君に拝謁すること度重なり、遂に拙考の奏上が叶いまして、得難い栄誉を賜る事となりました。まさに幸甚の至りに御座います。しかも更なる高みに飛躍なさろうという其の気高き御意志を目の当たりにし、一人私のみならず臣民の隅々にまで御偉業をあまねく知らしめざるを得ぬ崇高なる使命を覚えました。どうか陛下には御許しのある事を切に願う次第に御座ります。そして、陛下の偉大なる人徳を天下に広く流布せしめる為に、政府が銀行から金を借りる際には、必ず銀行に於いて利子を取るように致しましょう。勿論、利率を決めるのは銀行の所有者ですから、国王が株主となり銀行の所有者となって思う存分に利子を取ればよいのです」
ウ「うむ許そう。しかし自分が発行した金を、自分自身が借りて、借りた金に自分で利子を払う、随分とクドイように思うが」
パ「まだ御分かりにならぬ、いいですか、借用証書を発行するのです」
ウ「余に於いてもな、借財を為す際にはいちいち借用書を書き与えねばならんのじゃ、面倒だがの」
パ「ええい、政府として借りる借用書、国の借用書、国の負債、つまり国債を発行するのです。そして国債の償還義務は国民に押し付ける事に致しましょう」
ウ「お主、悪よのう、まさに悪魔の生まれ変わりだわ。ワシ等は幾らでも好きなだけ、事実上ほぼ無限に金を借りて使い放題となり、そして其の返済は国民の義務とする。正に悪魔の知恵であろう」
パ「お忘れですか、五百年前にジェノバとベネチアが既に国債を発行しております。ただ愚かにも我々とは少々目的を異にしておるようですが。そして国の借財に関しては国民に支払い義務が生ずるのは当然ですし常識です。現に法律上でも全く問題がありません。他の者が負債を償還する事こそ違法行為に御座います」
ウ「我等に法を制定させたのも、他ならぬ余の民草であるからには、道義的にも法律上に於いても問題のない事は明らかだが、問題の無い事こそ問題である事実に気のつく者もあるだろう」
パ「本当の問題は国の根幹そのものであり、国が成立する最も重要な要件である、通貨発行権を個人あるいは特定の組織に与える国民の愚劣さにあるのです。ここまで馬鹿な者達がどのような境遇に至ろうが自業自得では御座いませんか?生きようが死のうが我々の与り知らぬ事です。むしろ我々と同じ人間と思い、同じ人間として扱う事を避けなくてはなりません。もし愚民を人並みとして扱うのなら、陛下の御立場から推して考えますると神に対する冒瀆行為ともなりましょう。相手は下等動物も同然の愚民でありますれば事が露見する恐れはありません。御懸念は御無用に願います」
ウ「余が民を貶す事は許さぬ」
パ「恐れ入りまして御座います。平に平に御容赦を、御容赦を給わりますれば幸甚に御座りまする。それに致しましても、さすが神の代理人たる陛下にあらせられます。その気高き御心に拙考の如きは百害あって一利なし、お忘れください」
ウ「これこれ早まってはならん、やらんとは言うておらん。良い知恵の出自を気にしているようでは機会を逸する事にもなろう、ここは一番、親類縁者にも声をかけて盛大に其の国債とやらを始めようではないか」
パ「よくぞ御決断なされました。正に神の代理人と申すべき御英断と存じます」
ウ「さて、思い立ったが吉日じゃ、まずは試しに今すぐ国債とやらを発行して金を借り、余の所有する会社に融資して、まあ多少の商いをするにはするが、見た目の体裁をつけるに止め、其の殆ど全額を溜め込んで我らの資産としてしまい、何というたかな、その方等がよく話しておった、まず実現は不可能と見ておった、確か流通する貨幣の殆どを全てを独占し、死蔵する事によって経済の停滞を完全にする、だったかの」
パ「意外と耳聡とうございますな。停滞すればあらゆる商品は動産不動産の別なく其の価格を毀損いたします。所謂、暴落ですな。その時に全て買い占めてしまいましょう。市場から商品が無くなれば今度は暴騰が始まります、これも当たり前ですな。そしてその時に売ればよいのです。まあ、そうまでする必要はございませんが、一つのレジャーとして投機を楽しむのもようございましょう。幾らでも金を作れるわけですから、少々張り合いがないことは仕方ありませんが」
ウ「とにかく国債の発行額の全てを余の会社に所有させてみようではないか。考えれば考えるほど、これは堪えられない素晴らしさである。そうは思わぬかウイリアム、どうじゃな。それからその方に言うておくが、民草というものは死んでしまえば使う事が出来ぬ。死なさず生かさずが肝要だ。我々の使用人がいなくなれば我々も又、存続する事が出来ぬのだからな」
パ「御見事に御座ります。早速の御英断ともなれば銀行はイングランド銀行がよいでしょう。通貨発行権を独占させるのですから中央銀行とでも名付けておけば馬鹿な国民どもは特別な銀行とでも思い喜びます。自分達を奴隷以下にしてしまう組織だと思い至る知恵はないのですから安心に御座います」
ウ「元はと言えば、全ては余の民草の意思から生じた事だ。心配は無いし大丈夫だろう。問題は議会だが、余に於いてチャールズ一世の跡を追うのは困る」
パ「心配は御無用に御座りましょう。いつものように少し餌をくれてやればよいのです。議員共をイングランド銀行の株主に招待すれば、まず問題は起こりますまい」
ウ「したがな、ウイリアム。その方には分かっておるのであろう、かかる欺瞞がいつまでも続くはずが無いという事実をな、そうであろう」
パ「益々以って感服致しました。御慧眼の通りに御座います。いずれ国債が膨大に積み上がり、国民の返済能力を超える時が必ずやって来ます。そしてそれで良いのです。其の時点で我々はもう、国中の殆ど全てを買い占め、独占しておる訳ですから、そうなると国債はもう単なる紙切れにしか過ぎませぬ、役割りを終えた紙屑に御座います」
ウ「まだ言うておらぬ事があろう」
パ「これはどうも恐れ入りまして御座います。ご推察の通り、国債が紙屑となれば通貨も又、紙屑となりまする。つまり我々が全てを所有する代償として、国民には其の全ての通貨が残される事と相成る訳に御座います。悲しき報酬ですな。もはや全く何の意味も無い、単なるゴミにしか過ぎぬ、嘗て通貨と呼ばれていたモノが国民の取り分に御座います。元々の始まりが紙切れであった訳ですから当然の帰結ですな。それにしても我々の国民共は、これから先、その生涯をかけて、奴等の知性に相応しい対価、ゴミを集めて生きて行く事になるのですから、中々に愉快な生き様ではありますまいか、実に無様で奇妙な生き物ではありますまいか、そうで御座いましょう」
ウ「夢はいつか醒めるものだ。それにしても、この件で一番に儲ける者は、その方に知恵を付けた悪魔である事は間違いない」
パ「しかし、余りに早く醒める夢では困ります。夢よいつまでも、騙される間が長ければ長いほど、新たな夢を用意する事も可能となりまする」
ウ「何処かで、場所は分らぬが、邪悪の淵に蠢く忌まわしい手が伸び、余の意識の外郭を掴んだに相違ない………これほどの邪悪に上塗りがあるとも思えぬ」
パ「我等が植民地、アイルランドとスコットランドがございましょう」
ウ「いずれ植民地にはアメリカをも加えねばならぬ」
パ「植民地に我等の国債を売ればかなりの時を稼げますし、完全に植民地を所有する事が出来まする」
ウ「なるほど、売り付けられた植民地にしたところで、新たな国債の押し付け先を見付ければよいだけの話じゃな」
パ「さように御座ります。植民地の植民地、我らが手を下さずとも植民地どもが勝手に売り付け先を見つけてくるのです」
ウ「我等が植民地の国債を買う程の愚か者は、如何に世界広しといえども存在しているとは思えぬが、ともあれ滅びる迄には二百年かかるか三百年かかるかは分らぬ、しかし其の折には全世界を巻き込んでの大惨劇が起きるであろう。パターソンよ、其の方にそれが分らぬはずはない」
パ「出来うるならば、せいぜいに趣向を凝らした破局と完全なる消滅を我等が子孫に望みとうございます」
ウ「今更じゃが其方、ヒガミがキツイの。何ぞ世間に恨みでもあったか」
パ「はい、自業自得にござります」
………以上、寸劇風、終わり………
かつてイギリスの支配下にあった旧植民地からの国債を、世界中のどこよりも一番たくさん買っているのは日本であり、これぞ正に日本凄いの証明に他ならない。
さて、何とかイギリスから独立してはみたものの、以前に自分達を苦しめた宗主国からの植民地に対する国債ゴリ押しの効用をアメリカが忘れるわけもなく、身銭を切って知り尽くしている其の素晴らしい効果の程を、いよいよ自分自身が試す番となったからには、これを遠慮するのは誰が考えても愚の骨頂である。そういうわけでアメリカの植民地に対する国債販売が開始されたが、現行法規的にも全く問題が無いのは既に立証済みであり、問題がないのなら売れるだけ売ろうとするのが人情であり、売られる方にしてみても他所の国債を買うのが嫌なら独立すればいいだけの話だ。現にアメリカをはじめ他の国々はイギリスから独立している。
日本が独立しないのはアメリカが悪いのではなく、日本人が馬鹿で愚かなため独立できないのであり、それは断じてアメリカの責任ではない。これがアメリカと国際社会の共通認識である。
仕方がないのでイギリスとアメリカの猿真似をしたのが日本銀行である。日本政府がワザと民間銀行に「信用創造」の権利を与え、政府がワザと「独立した中央銀行に貨幣の発行権を与えた」犯罪行為は決して許される事はない。
今からでも遅くはない、政府が民間銀行に与えた「信用創造」を剥奪して金融経済と実体経済がまるで別物の如く暴走する愚を停止させ、表裏一体の経済に戻した後に、中央銀行を完全に国有化してしまい、通貨発行権を政府のものとして直接通貨を発行する事だ。さすれば日本国崩壊まで十年や十五年くらいの時を稼げるし、私ごとき情勢のオマケみたいな人間も綺麗さっぱりと一掃できる。それにしても、いつの間にやら日銀が買っている上場投資信託の時価ベースでの保有額が二十八兆円(2019)を超えていたのだから驚天動地である。
日銀が扱うのは全て国民の金であるにもかかわらず、自由自在に使う権利があるのだから気違い沙汰だ。認可法人如きが国民の金を自由勝手に売り買いし、金融政策の独立性と業務運営の自主性があるとは、どんな馬鹿でも納得しないであろう。金融政策とは元々すべて政府に属する事柄ではないか、選挙で選ばれた国民の代表が決する、国にとって最も重要な決め事を、なぜ何処の馬の骨とも知れぬ胡乱の輩に任せるのか、馬鹿も大概にせよ。
こんな有様では近い将来に必ず、通貨は本来のあるべき姿、つまり紙切れに戻るであろう。しかも、御丁寧にグローバル経済とやらにしたお蔭で、通貨は全て、全世界に於いて全く同時に、タダの一つの例外もなく、無価値な紙切れとなるであろう。
もう此の日本国の基盤は、驚嘆すべき愚劣の上に築かれている事が誰の目にもハッキリとしてしまったからには、馬鹿は馬鹿なりに無い頭を絞って、せめて最後くらいは戦争で一花咲かせる道を選んだのであろう、色々と準備に追われているらしく、法整備にも余念がない。
この有様では惑星上すべての国々によって馬鹿にされ蔑まれ、誰からも相手にされなくなり、国際社会から正常な独立国家と認識されなくなって当然である。
しかし困ったのはシステムの運用者達で、風鈴が無能なのは当然であり、風鈴の義務でもあるが、勝手に自滅されたら廃物利用に支障が出てしまうし、自分達の能力に疑いの視線を向ける者も出てくる。
そこでとうとう、風鈴に知恵を付けて、使用人の質の向上を図ろうとしたらしい。我が国に於ける様々な政策の残骸から、其れは明確に知る事が出来る。
しかし彼等の命令を実行するのは最終的に全て風鈴なのである、どんなに幼稚な命令でも自らの判断力を要する命令には全く対応できないのだ。全ての政策が失敗を重ねたのも当然と言える。
そしてとうとう、他の国に於いては其の運用実績に目覚ましい効果が認められ、結果に対する自画自賛が顕著極まりない、彼等が畢生の渾身作である「知能・知性の芽生えプログラム」の改変作業が始まった。
そんなモノをいつの間に作ったのか知らないが、運用する方もする方なら、効果を表す方も表すほうだ、いい加減にしてほしい。暫くすると、今までの問題点を詳細に分析し徹底的に改善して余りある、「知能・知性の芽生えプログラム、日本人向けバージョン」が完成した。それを一番まともな風鈴を使って行政・立法・司法など、様々な公的機関に於いて執行したのであるが、忠実に履行すればするほど、何の変化も生じないのであった。
これにはさすがの巨悪も動揺したようで、下らぬ会議を開いたりして善後策を練ったりもしたようだが、はっきりとした原因を特定できなかったようだ。
この結果を生じた原因は風鈴に対する過大評価にある。どんなに出来の悪い道具ではあっても、長年にわたって使用してきたのなら、少々の欲目が出てくるのは当然であり、彼等に於いてもそれは例外となり得なかったのだ。
飼っている猿や犬に様々な知的刺激を与え、良い餌を与えるなどして良好な環境を整えてやっても、ただ太るばかりで人間になることはない。アヴェロンの野生児やガスパーハウザーの例を持ち出すまでもなく、人間以外のモノとして成長し完成されたのであれば、誠に遺憾ながら其の現状は死ぬまで維持される。本当に気の毒な事ではあるが、一度風鈴になったモノは、もう元の人間に戻る事は極めて難しい。
だが其れは不可能ではない、びっくりするほどの少数ではあるが、大変な苦労の末に人間へと復活し、我々の仲間となった者もあるのである。
我々の仲間となるのに好き嫌いはあっても、とりあえず人間になって損はないし、ダメもとで一生に一度くらいは挑戦しておかないと、風鈴としての損ばかりがかさむ事になる。どのように為すべきか具体的な方法の分からない向きもあるだろうが、手段を問わなければ方法は幾つか有る。
まずは他の風鈴共がダメだということを全部やってみてから復活の可能性を探るのもよいし、今まで公序良俗と勘違いしていたものを全て無視して生きるのも極めて有効だ。事にあたっては手段を問うという考えを捨て、まずは初めの一歩を踏み出す勇気さえあればよい。その時に初めて、社会というものが人間の創造を徹底的に阻止する為に存在している事実を知る事になる。
他にも個人的に反発心の強い者や、地域によっては風鈴教育に失敗している場所もあったりで、システム全体に制度疲労、綻びが顕著にみられ、風鈴の出世頭が押さえつけに必死だが、巨悪にすら出来ぬ事を風鈴如きが出来る訳もなく、一体全体これからはシステムより何が飛び出して来るのか(きっとろくでもない奴だろう)予測がつかない。
とにかく巨悪のプログラムは対象を間違っていたわけだ。ただ一つ救いなのは、「人間だよ俺たちは」と、ほとんどの風鈴が勘違いしながら生きている現状で、そこには風鈴と野生児の違いがあるばかりなのだが、いちいち其れを言い立てるのも野暮だろう。
それにしても他ならぬ巨悪の手によって、完成された風鈴の変容がほとんど不可能である事実が証明されたのは皮肉であった。完成された風鈴の変容が殆ど不可能であるのなら、詰まるところ計画の前倒しを図るしか打開の道は残されていない。つまり崩壊はもう、既に完成された運命の輪となり、慣性の法則の働くが如く、避けえぬ未来となった。
こと此処に至っては何がどうなろうとも日本国には崩壊以外の選択肢は残されておらず、それは日本国首相の外遊ぶりと相手国の対応で火を見るよりも明らかだが、良い機会だから国が滅びるとは一体どういうものであるのか、ここは一番じっくりと体験してみるのも或る種の後学の一助となり得るだろうし、良い思い出として心に残る事にもなるだろう。
彼等資本家はずっと遥か以前に、恐らくはソ連崩壊で莫大な利益を得た経験から、愚民化の進捗が著しい国は、完全に潰してしまって廃物利用をする以外に利用価値は無い事を知ったのであろう。
世界を見渡してみると、馬鹿の筆頭は日本人以外に該当する者はいない。其れは原発処理と首相を見れば確信できる。さて、使い捨てた其の後は、風鈴の数が多すぎるのでシステムの運用者達は国ごと捨てて出て行くしかないが、出て行くついでに日本を欲しがる者があれば当然に売り飛ばすだろう。
歴史上、大国同士の取り引き材料にされ、売り飛ばされた植民地が他の国の植民地になったり、別の国に吸収合併された例は掃いて捨てるほどあり、枚挙にいとまがない。
日本も必ずそうなるだろう。一人一人の集合体が国を形作る訳だから、そのレベルに合わせた国になるのは当たり前で、当初から今日の体たらくを迎える事は国民一人一人の合意であり予定であったはずだ。
最初から分かり切っていた結末を敢えてやり切った真意は、何よりも其の結末を望んでいたからに他ならず、まさか白痴ではあるまいし、分かりませんでした、という事はないだろう。
日本の親達は依然として教育に熱心であるが、そのあたりの事を良く分かっているからこそ子供達を塾へとやるのだろう。日本国民は教育のふりをした、風鈴製造マシーンに全幅の信頼を置いている事が良く分かる。
人生万事塞翁が馬
起きた出来事を好機と捉えるか、或いは窮地と捉えるのか、その判断で後の展開は大きく違う。愚か者はどんな好機をも生かせずに危機へと変えてしまい、賢い者は絶体絶命の窮地をも千載一遇の好機へと変えてしまう。
私にも敵の居たことがあり、その相手に対して耐えがたい苦しみと解決不能の危機的状況を連日連夜に亘って与え続けていた事があった。並の者なら三日で音を上げ一週間も経てば自殺を考えるほどのプレッシャーであったはずだから、遠からず詫びを入れに来るだろうと高を括っていたが、一向にその気配がない。
丹精の末に完成させた焼きそばのソースとレシピを盗んで逐電してしまい、図々しくも一駅を挟んだ繁華街で焼きそばの店を出し、いきなり大繁盛させている男がターゲットなのだが、いくら私でも其れ位の事で腰を上げるつもりは無かった。
男の店で焼きそばを食った客の何人かが、私の作った焼きそばと全く同じ風味である事を指摘し始めてしまい、店名の違う二号店なのか、或いは何等かの膨大な犠牲と献身の末にとうとうレシピの入手に成功したのか、または運命の悪戯でたまたま同じ味になってしまったのか、彼等は熱心に答えを求めたのだ。
それに対する男の回答はいつも同じようなものであったらしく、「お人好しの自分からソースのレシピを盗んでいった者がおり、其れ位ならまだしも許しようはあったが、店まで出して自分が苦心惨憺に仕上げたレシピを悪用して売り上げを伸ばしており、最近では店の名もそこそこ知られてきてしまい、元はと言えば自分が善良過ぎたから起きてしまった事態ではあるが、自分にほんの少しでも悪知恵があれば、きっとここまでの事態の悪化を見る事はなかったはずで、善良な者が生き辛い此の世の中というモノが本当に残念で堪らない」
その様な内容を涙ながらに訴えるなどしていたらしい。さらに、焼きそばを作り始めたのは私の方が先であることを指摘する客もいたらしいが、「万全を期して念には念を入れて店作りを行い、ソースの味にも改良の余地を探っているうちに、手先の器用な卑怯者に先を越されてしまい、それがために大変不名誉な思いもし、突然に謂れの無い恥をかかされ、人前で辱しめを受け、思わず流した悔し涙は一度や二度では収まらないにも係わらず、流石に正義を憎む卑怯者らしく、事態はいよいよ激しさを増し、別の機会には雨の中に放り出されて犬をけしかけられ、気が付いたら川に落とされていた事もあり、まったくもって酷い話には違いないが、理不尽極まりない非道な仕打ちに対して、只々客に旨い焼きそばを食わしたい一心で耐えに耐え、忍びに忍んだ粉骨砕身ぶりは、いくら世間知らずで純情可憐な我が身と云えども、余りにも健気でいじらしく、その焼きそば愛に支えられた正義の行いの数々は、いつの日か必ず此の店の評判となって地域社会に定着し、その時こそ、あの憎むべき極悪人に対して世間の評価という正義の鉄槌が振り下ろされるであろう事を確信している」
みたいな事を迫真の演技を以て説明していたようだ。地域の同情を一身に集めた男は順調に事業を展開していたが、あるとき光食品ウスターソースの代わりに養命酒を使ったことがあるらしく、当然のことながら著しく評判は下降したが、その時も私の陰謀という事でうまく難を逃れたのであった。
もうこれ以上、此の男を放っておけば此方の存亡にも係ると判断して、方法の如何を問わず、とうとう排除に乗り出したのであるが、問題なのは制裁の程度である。許しがたい男ではあるが其の行動力は括目すべきものがあるし、元はと云えば焼きそば好きが高じての出来心でもある、そこで罪を悔いて詫びを入れるなら両者並びに関係各位が全てを水に流せる程度とした。
方針が決まったので、男が行きつけの風俗店で不適切な関係を楽しんでいる最中を狙いブリーフケースごと手形を奪い取ると、次いで人に頼んで痴漢の冤罪へと追いやり、件の男には女装癖のある事が分かっていたので、その晴れ姿を写真に収めた人物から画像データを買い取り、大変な苦労をしてサイバーテロのブロを雇い、ちょうど起きた通り魔事件の犯人が所持するパソコンを特定して、まだ警察の手が入る前に何とか其の画像データをアップロードする事に成功したのである。
男は全てを失い、仮釈放の身となった。だが一向に意気阻喪の気配がない、それどころか精神高揚に耽溺し切っている風すらある。そこに至ってようやく思い出した事があり、思わず膝を叩いたが、後悔先に立たず、既に後の祭りであった。
男は普段からトラブルを好む傾向が顕著に見受けられ、私の処に居た時分は良くその本領を発揮して、客と殴り合いになる事も珍しくなかったが、その折に怪我などを負い、ついウッカリと病院なんぞへ搬送されると、杖などをついて院内をくまなく徘徊して調べつくし、さらに休む間もなく必要のないリハビリを繰り返して疲労困憊となり、元々は松葉杖をついて歩く身の上であるから、遂には他の患者を巻き込んで階段から転落するなどしてしまい、階段を利用中の看護婦や医者に激突して大変な負傷を負わせる事がよくあったのである。
また酔って歩道橋から飛び降りて車にはねられ、瀕死となった事もあった。
その日、寝耳に水の病院からの一報に飛び起きると、素早く判断して「歩道橋から飛び降りるくらいだから文無しは間違いない、いや付け馬さえいるかもしれない」。
そこで彼方此方へバタバタと、取る物も取り敢えず何がしかの都合をつけて病院へ飛んで行き、ちょうど激しい代謝亢進状態により面会は謝絶されていたので、其の間に手続きと支払いを済ませ、あの男が淹れたコーヒーより酷いコーヒーのある事に驚き、ようやく治療を終えた退屈な医者の説明をうんざりしながら聞くともなく聞いていると、麻酔を拒否した状態にて手術が行われた事実にまた驚く有様となった。
どうやら麻酔により快楽中枢の機能に障害の出る事を恐れ、手術中に死んでも構わないという条件を付けて、麻酔なしの執刀を強要したらしい。また医者の方でもよくこの依頼に応え、順調のうちに手術は成功を迎えた様であった。
何事もない平凡な日々には仕事を終えるとSMクラブへと赴き、次の日には朝から上機嫌で店へ顔を出し、厨房に現れるや否やクラブでの自慢話をまくし立てるのであるが、クラブの女性達が大変な非力であり、様々な道具によるプレイも男にはダメージを与える事が出来ず、遂には女王をはじめ三人の女性達が腱鞘炎になった事を話したりするのであった。
この男は当時から苦しみを喜びに変える能力を有していたのである。そして窮地に陥れば陥るほど興奮する性質の男でもあったのだ。制裁を加えたつもりでも、制裁の実行要件が私の偏見により判断された為に何の効果も上げていなかったのだ。様々な体験を経て形成された私の価値観は、いつの間にか自分に都合のよい偏見となっており、判断を誤っていたのである。
栴檀は双葉より芳し、男の本質にまるで気が付かず、その事実を見逃し続けた私のミスであった。其の後、男は天来の特質を活かして政治家を志し、自民党から出馬して見事当選を勝ち取り、現在へと至っている。男は絶体絶命の窮地を見事、千載一遇の好機へと転換してのけたのだ。
栴檀は双葉より芳し・壱
風鈴モデルの瓦解はそれを土台に成り立っていた国家を当然に滅ぼす。システムを設計したアメリカは一番最後まで残るだろうが、システムを取り入れたアメリカの忠実なる使用人、韓国と日本は既に使い捨ての段階へと移行している。
どうせ使い捨てにするなら、韓国は北朝鮮と合併させ新羅国とでも国名を変え、セットで中国に売り払う方が得だからアメリカは何が何でも北朝鮮と韓国を合併させるだろう。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とはよく言ったもので、日本は余りに愚民化が進み過ぎて、アメリカが予定していた条件での買い手が付かず、アメリカが手余しの体である。その内に先の大戦の如く、いっそ愚民ごと上物を全て処分してしまい、更地にでもして売りに出したらどうかと言う案も出るだろう。
どうせ更地にするなら戦争を起こし、抱え込んだポンコツ兵器を一掃処分にした方が得だから、やるなら必ず戦争とセットでなくてはならない。それにしても、いつもいつも自分達が得するように、自分達に利益が有るように、彼等資本家の行動様式はそればかりである。先祖伝来の習い性とはいえ、飽きが来ないのであろうか、嫌にならないのだろうか。
連合国に於ける先の大戦の主眼ともいえる第一義、旧日本帝国の支配者の一掃は一応の成果を出した。しかしドイツで味を占めた爆撃による都市の完全破壊までをも作戦に追加したのは言い訳不能の大罪である。
ドレスデン爆撃もハンブルク空襲もドイツ敗戦が決定的となってから実行され、実行犯どもは何やかやと作戦の正当性を言い立ててはいるが、軍事の素人にも勝敗の帰趨とは全く無縁の爆撃である事は一目瞭然だ。
だからこそ、ドレスデン爆撃は連合国によって気違い沙汰の執念深さで隠蔽され続けたが、ハンブルクからドレスデンへと続いた民間人の虐殺が隠し通せるわけもなく、事実は直ぐに露見して白日の下に晒され、ドレスデンで捕虜となっていたアメリカ兵にすら告発される始末となった。
日本もまた同じで、第二次世界大戦時に於けるアメリカによる空襲や原爆投下は、ただ単に敵国のダメージ増大を図る為に行われた訳ではない。1942年のミッドウェー海戦で大敗を喫した日本帝国海軍は其の主力艦の殆ど全てを失い、最早大戦に勝つ可能性を喪失した事は誰の目にも明白であった。
だからこそ、木戸幸一と吉田茂はミッドウェー敗戦と共に講和交渉を始めようとしたのである。ところが其処へ突然の横槍が入る。云う所の主戦論者が断固として講和反対を唱え、最終的に天皇が戦争継続を決して、講和条約締結は夢と消えた。
その後は本土空襲で何十万人もの一般市民が死に、広島長崎に原爆が落ちた。日本の戦死者は記録に残るだけで三百十万人だが、見事なまでに終戦直前の一年間に集中している。
実に鮮やかな日本人ぶりである。戦後、すっかり更地になった日本にアメリカは軍事基地を作り商業施設を作った。そこに使用人として働く日本人が居たのは理の当然であり、先に述べたドイツもまた同様の結果をたどっている。
不思議なのは、自らの無能を恥じて悶死でもしたはずの、主戦論者達が何故か全員生き残っていた事実で、「本土決戦、一億総玉砕、生きて虜囚の辱めを受けず」等のスローガンを一番声高に叫び、戦争継続を唱えた張本人が何故に只の一人も死なずに済んだのか、いや死なずにいられたのか、是非とも其の理由を明らかにして欲しいものである。
その後、彼等主戦論者は当然の如く連合国からA級戦犯として逮捕され、人類に対する大罪の廉で、いずれ死刑は免れ得ぬ犯罪者として処断されるはずであった。あったがしかし、何故か鬼畜米英により其の全員が無罪放免となり、ロシアや中国が猛反対する中、有ろう事かまたしても鬼畜米英の後押しを受けた彼等主戦論者の面々に於いて、議員になる者、テレビ放送網の社長、新聞社を経営する者など、とにかく絶える間もなく立身が相次ぎ、待ってましたとばかりに戦後日本の重要ポストを独占してしまい、遂には内閣総理大臣になる者まで出る始末とは、一体全体に何がどうしたら此の様な有り様になるのか、説明の出来る者が居たら、どうか其の間の事情を明らかにして欲しい。
さて、これから日本がどうなるのか、飼い主のアメリカさえ分からないのに、日本人に分かるはずもない。分かっているのは崩壊する現実だけだ。どうせ崩壊するのなら、何も向こうにばかり利するのは馬鹿馬鹿しいし勿体ない。此処は一番、当事者たる日本国に於いても大いなる余禄があって然るべきだろう。
そして云うまでもなく千載一遇の好機でもある。ピンチを迎えたのではなく、大チャンスが巡ってきたのだ、間違えてはいけない。そして斯の機を逃す事は万死に値する。
国が無くなれば命令する者もいなくなり、自分に命令するのは自分自身だけだ。気分に任せて自由自在に自分で自分を製造し、好きな時に好きなだけ自分で自分を使う時代がやっと来る。
いつの時代にも其の様な人間は少数だが存在し続けてきた。これからは殆ど全ての人間が自分で自分を製造し、自分で自分に命令して、自分自身を使う、そういう時代に嫌でも突入する。
当然の事ながら、作り手に比例した出来上がりとなるため、楽しくもやり甲斐のある日々が続く事となる。特に今迄の人生に於いて課題が山積みの人、課題の存在すら気が付かずに過ごした人々にとっては、嬉しい悲鳴に咽喉も嗄れるであろうし、新たに開かれた輝かしくも美しい展望は、限りない未来に営々と連なること必至であり、じつに羨ましい限りである。
人は反省によって古い自己を破壊し、新しい自分として再生できる。そこが風鈴とは違う進化する生命である人間の利点で、次から次へと日々に創造する新しい自分の音色に耳を澄まし、より良い音を目指せば良い。出来上がった新たな音色が汚いからと云って諦めてはならない。それがいま現在の到達点なのだ。
私は最初から不良品であったおかげで、型にはハマらずに済んだ。しかしだからといって別の型にハマらずに済んだ訳では無い。選択の自由はあったが、選択肢の少なさと選択眼の無さが、ビックリするような型を選ばせた事もあり、私がハマった瞬間に破裂するような脆弱な型(会社)もあった。
だが、ネグロの童子達は違った。一瞥すれば誰にでも分かる、彼等に型は無い、彼等には可能性があるだけなのだ。私との違いは随分と大きいように思う、その違いは一体全体に何処から来るのだろうか、考えずにはいられない相違点ではあった。まず歳が違う、これはハッキリしているし、そして風体もかなり違う、おそらく親も違うだろう、使用する遊具や遊戯にも似たところはない、共通点は学校に通っていない事くらいだが、彼等にとっての通学はアウトサイダーに該当するはずだ。
結局、資本家にとってのネグロは旨味が無い、それに尽きるだろう。わざわざアマゾンに一儲けを狙い出張って来ても、投資に見合う利が殆ど無いし、損ばかり膨らむ。日本の如く資本家に都合の良い地域としての育成は極めて難しいと判断しているのだ。近代の物質文明と経済文明の奴隷共に毒されていない貴重な地域といえる。
翻って斯の日本はどうかと云えば、人々が余りにも物質文明、経済文明の奴隷に成り切っている地域のため、個としての可能性を否定する国となった。しかも、過ぎたるは猶及ばざるが如しで、経済の奴隷化が進み過ぎて奴隷としては使い物にならなくなったのが現状である。
日本の資本家、官僚、政治家連中は至極あっさりと飼い主から捨てられてしまい忸怩たる思いに一杯であろう。地上に存在する個としての可能性の化身が一人一人の人間なのだから、その可能性に沿って、常に何者かに変転し続けていくのは仕方ない。自分の可能性の選択肢を他人に奪われ続ける事が問題なのだ。自分の可能性は自身が握り続けることを心掛け、必要とあらば思い切って他人へと任せる事も考えて、選んだ選択肢が最も豊かになる選択肢を増やして続けて行けば、当然どの様な身の振り方も自由自在となり、たとえ其の身が地獄にあろうとも、充実した毎日を楽しめること請け合いだ。
死ねば地上に於ける全ての選択肢は消失する。同様に全ての選択肢を消失すれば必ず死ね。日本人が馬鹿で不幸なのは選択肢が一向に増えないからであり、それだけならまだしも選択肢の減り続ける傾向も顕著で、しかも選択肢を選ぶ目が濁り切って腐っているからである。
此処は一番、有るだけの知恵と勇気を総動員して、腐れマナコを見開き、不幸の病根を探究して其の原因を修正し、どんなに認め難き現状であろうとも素直に認め、どんなに受け入れがたい事実があってもそれを受け入れ、どんなに許し難き行為であろうとも全てを許し、どんな苦しみにも耐えて、果てし無き猛省の末に明日無き明日を掴み取り、失われた人生を未来へとつなぐのだ。欠点が修正されて目が出来れば、其の選択に誤りは無い。
痙攣が激しさを増し、勝手に腕が目の前に来たので腕時計を見ると、発砲してからまだ三十秒程しか経っておらず、相変わらず病んだ身の処分方法に何等のアイデアを見る事も叶わず、きっと誰かがガソリンでもぶっかけて焼いてくれることを期待する事とした。ふと思い立ってあたりを見渡すと、自分の横たわる岸辺が砂浜であり、空より澄んだアクアマリンの流れが輝く雲を映し、雲にはニグロの地が映っている奇跡を確認すると、自分自身に対して神罰が適用中である事実を再確認するのであった。
あの男なら喜んで身代わりを申し出るだろうに、その事がちょっと惜しい気もした。するとその思いに身体が応えるかの如く、下腹に急激な緊張が走り、制御する能力も体力も失われた病人の、長々とだらしのない放屁が開始されるのであった。
ぶぅ〜う、、、幸いにも頭が風上を向いており風速は4ノット程である。風下のざわめきが一瞬、森閑として収まり、ただの放屁には違いないが、何か通常ではあり得ない可能性を孕んでいたのか、とにかくネグロの地に再び良くない事が起きたようである。栴檀は双葉より芳し、私も幼い頃からの本質はそのままであったようだ。
栴檀は双葉より芳し・弐
イタチの最後っ屁が出てしまうと次から次へと過去の出来事が頭を過ぎり始めた。これがきっと世に云う走馬灯なのであろう。
小学生の頃、授業が始まるとポケットに用意されたゴムバンドを取り出し、素早く腕に巻き付けると、浮き上がった血管の形状を確認して納得する、当時としては斬新な趣味を持つ同級生のいた事があった。
その男は教壇の花瓶の手入れにも熱心で、まだ朝の早いうちから花を携えて教室に現れ、余人が私だけである事を確認すると、野生の薔薇やチューリップを花瓶に生け、水の代わりに自分の小便を入れてしまうと、始業までの暫しの間、偽りの静寂に妄想を楽しむのを日課としていた。
また地域の祭や町内のカラオケ大会などで大掛かりな舞台が作られると、ごく自然にその上へのぼりオナニーをする事もあった。私はその男の奔放なアイデアと果敢なる実行力に魅了されており、随分と仲の良かったはずだが、いつの頃からか疎遠となり、今日に至るまで思い出すこともなかったのはどうした事であろうか、あるいはタルパーであったのかもしれない。
他の地域は知らないが、私の属する地域共同体の就学前児童達に於いては、そのほとんど全員が座敷童を持っていた。座敷童は地域に属する者ではなく、其々の子供達に属しており、その数は一人の子供に対してだいたい二人ほどで、子供と共に地球の裏側までも同道していき、どんな時でも子供の味方であり、呼べば必ず現れて、好きな時に好きなだけ遊び相手になってくれる、子供達にとって無くてはならない大切な相棒であった。私にタルパーが発生したのは四歳頃であったと記憶している。
時には座敷童の奪い合いで喧嘩になる事もあり、四、五日にも亘って子供達の交友関係が険悪を極め、見かねた周りの子供達の取り成しで、プロ野球のように正式なトレードが成立する事もある、大人達には伺い知れぬ存在である。
私は座敷童を呼べるようになってから、近在の子供達と遊ぶ事に興味を失ってしまい、呼ぶ事の出来る座敷童の数を増やそうと躍起になり、色々と工夫を凝らすようになっていた。
その日、いつもの様に空き地へと赴き、座敷童の呼び出しを目論んでいると、空き地の手前で目前の風景が崩れ落ちしまい、私はいつの間にか紫の山の前にいた。
白銀に輝く一人の巨大な女性が私の前に立ち塞がり、静かに私を見つめている。女性の背後には太陽が輝き、その太陽から光り輝く無数の手が差し伸べられており、不思議な事もあればある、と思いよくよく見ると、それは手ではなく、紫の白銀に輝く光線であり、その一つ一つが無数に輝きだして、私の理解も想像も遥かに超えた次元の違う神々しい美しさであった。
光線の一つ一つが慈悲と叡智そのものであり、美しく神々しい生命の光を私まで運んで来るのである。まともな人間であれば、きっと感激のあまり号泣するしかないほどの光景であったに違いない。語らずとも眼差しとその光から全てが理解され、それは無限の思い遣りそのものではあったが、同時に一条の厳しさが私に向けられていた。
——タルパーの創造とその遊戯をやめよ——
はっきりとした意思が述べられた。まともな人間であれば即座に自らの過ちを悟り、直ちに悔い改めるであろう、ましてや私は純情可憐なはずの就学前児童である。
「いやだ、絶対に止めない。どんな目に合おうが、殺されようが、地獄に落ちようが止めない」そう心中に叫ぶと、私はいつもの空き地にいるのであった。さて、そのくらいで治まる私ではないので、その後は思う存分にむくれ放題むくれており、改めて自分勝手にやりたい放題やる事を誓い、そして其の時点でようやく溜飲を下げたのである。
正に天下に入れざる痴れ者であり、栴檀は双葉より芳し、正しくは悪臭であるが、今日の私の雛形が早くも形成されていたことが如実に見て取れる。そして今日まで私はタルパーが見え続けている。近所の子供達は学校へ通う頃になると、次々と座敷童を呼べなくなり、その存在を完全に忘却していった。
私もタルパーを呼び出すのに物凄く疲れるようになり、またタルパーよりも現実の世界にすっかりと夢中になり、やがて呼び出しを完全に諦めてしまうと、見えるだけで良しとしたのである。その後も順調に成長を続けた私は様々なタルパーを見てきた。
近所の公園に子供を連れた母親の集まる事があり、母親に連れられた子供達は一斉に遊び始めて騒がしい。その人数は肉眼で三人と確認できるが、私には九人の子供達が見えており、そのうちの一人が諸天善神の変化された姿であること、子供達の安全を図るため遊びの輪に入り、様々な教えを遊びを交えながら分かりやすく説いている事が分かる。
諸天善神は私が見ている事を百も承知であり、此方に向ける眼は果てしなく厳しい。不思議なのか当然なのか、困った事に当方の悪事の其の全てが諸天善神に露見している事実で、こんな有様では気の休まる事もなく、夜の安眠も失われて久しい。
さて、此の様な人間ではあっても、止むに止まれぬ訳が出来て人並みに働いた事があり、五百人程の人々がコピー機やテレビを組み立てる工場で、月々の交番表を作ったり壊れた水道を直したりして日々に忙しく過ごしていた事があった。おかげで自堕落かつ怠惰な乱れ切った生活がすっかりと駄目になり、規則正しい起床にマトモな飯がよく利いて、健康で文化的な最低限の生活を営むようになり、奴隷共を効率良く働かせる社会のシステムの精巧な作りに感心する事となった。
時折り工場に対する嫌がらせも兼ねて、状況の改善を図る方法を模索し実践もするのだが、工場では真面目くさった馬鹿共ばかりが幅を利かせ、他人のあら探しに血道を上げているので、なかなかに上手くいかないのであった。
それにしてもかつての誓いを破り、なぜ工場へと入ってしまったのか、いくら生来の物見高さを加味しても、言い訳が立たない意志薄弱ぶりである。急に思い立った原因不明の衝動があった訳でもないし、人生の軌道修正を行なう必要性を痛感した訳でもない、嘗ての誓いを発展的に解消せざるを得なくなった事情もまるでなし、敵を知り己を知れば百戦ほとんど危うからずと云う思いもあるにはあったが、本音ではない事も分かっている。
我々以外の日本人、同志ではない者と一度は働いてみたかったのだ。そして大多数の日本人が実際には如何様に暮らしているのか、ハタから見ている分には不思議としか思えない、あの様な日常をどうして送る事が出来るのか、なぜ日々の生活に疑問を持たないのか、疑問を持たぬ事になぜ疑問を持たないのか、彼等の思想信条と達成すべき目標や成さねばならぬ使命とは果たしてどの様なものなのか、或いはそんなものとは元から無縁な存在なのか、そこで百聞は一見にしかずと思い働きに出たのであったが、やはり経験はするもので、想像を超えた馬鹿馬鹿しさと悲惨な現実を充分に見聞きする事が出来たのは収穫であった。
まず、働いている日本人に対して多少の銭と休息も与えられるが、それは使用人としての義務を何とか果たす事が出来得る必要最小限度のモノで、自由と可能性の絶無した環境であった。そして業務全般に於ける効率の悪さ、一人一人の理解力の低さに驚き、何をどのように考えるべきか、どのように判断し決断し実行するのかまるで分っておらず、このような者達に我々と同じ人間としての意識を持ち得る事など有り得ない事に気が付き、それにもかかわらず彼等の一人一人が自分自身を人間と考えている事実に腰を抜かすほど驚いた。彼等の使用者が至極あっさりと労働者を人間として扱うのを止めた理由が嫌というほど良く分かった。
腹立たしい事に使用人の分際で、時々ではあるが、人間らしく振る舞う事があるのである。人間なのか使用人なのか、どちらかハッキリと態度を表明できないのだろうか。
彼等は自分達が何者であるか知らないのだ。そして知ろうともしないし、考えようともしない。まさか肉体的な条件が同じだからという理由だけで、自分達も同じ人間であると言うつもりなのだろうか。
思えば幼き日の誓いのあの時から、彼等と私は大きく道が別れてしまった。同じ町道(後に市道)を進んでいても、全く別の道を歩いていたのだ。そして其の道は絶対に交わる事がない。今では完全に逆方向を向いている。
大人の座敷童
其の事が起きたのは働き始めてから三ヶ月ほども経った頃で、総務課という場所に常駐していた私は、周囲の人間が余りの善人ぞろいである事に一驚を喫していた。善人であることは良い、しかし其れは知恵とセットでなくてはならない。
残念ながら彼等には知恵が無かった。つまりは愚者であり、性質の悪い、手に負えない赤ん坊と同じである。こんな有様では使用者自身に些かばかりの知恵があり、その知恵を利かせて少々の説得を以って事に当たる才覚さえあれば、彼等の使用人を生かすも殺すも自由自在に使用できる権利が生ずるのは当たり前の事であった。
そんな或る日に新任の課長を名乗る俗物が現われたのである。これがまた見事なほどの憎体を極めた男で、上司には顔の見分けもつかぬ程の最敬礼を繰り返し、同僚や課員には一体どこに顔があるのか分からぬ程にふんぞり返って威張り散らし、所構わず、男女を選ばずセクハラ三昧、もちろん金には汚く、借りたモノは絶対に返さない、まさに絵に描いたような人間の屑であった。
この人物が目の敵として付け狙っていたのが他ならぬ私であり、よくもまあ飽きもせずに人の邪魔ばかり出来るものだと感心する程の執念深さであった。
実力で排除する事も出来ないではないかもしれない。しかし、誰もが最初は初心者である、きっと日本の工場ではこういう事がよくあるのであろう、結論を急がずに暫らく様子を見るという選択肢もあり得ないではない、そのうち何か面白い事でも有るだろう。
経験はしておくもので、その際に思い起こしたのが、以前に私から焼きそばのソースを奪って逐電した男の事で、件の男には敵を憎むという感情がなく、もちろん力づくで相手をどうこうしようという思いもなかった。ただ全てを喜びへと変えていく、圧倒的な意思があるだけなのである。
ただ問題なのは、自分や同胞の苦しみを取り除き、その原因を解消する思想が完全に欠如している事で、代わりに苦しみそのものを喜びとして、苦しみとその原因を肯定し大いに推奨する男だったことである。人生の第一義を快楽の追求に求めて揺らぐ事がなく、もし我に快楽機械を得さしむるなら、ためらう事なくマックスパワーでフル稼働させ、自分が先に死ぬか、機械が先に壊れるか、果てしない挑戦に充実の日々を送る事を公言していた。
結局、思い出せば出すほど時間を無駄にする男で、世の中には早く忘れた方が良い事もあるのは事実であり、また経験というものは全く無駄な体験になる事も有り得る厳しい現実に気が付いて、盛大にズッコケたのである。
それにしても何故、斯くまで下らない思い出に満ち溢れ切った男が存在するのか不思議だが、其れは向こうの方も同じだったらしく、議員に当選してからも折にふれ、かつて自分を雇用していた最低最悪の極悪人、即ち焼きそば屋の親父を思い起こしては嘆息するなどして、嗚咽に耽る事がよくあったらしい。
重要なのは無駄な体験を繰り返さぬ事で、昔馴染みの嘗ての失敗を何度も繰り返すようでは人間としての要件を欠いていると云わざるを得ない。
俗物課長を放置すれば、一人私のみならず、余人が迷惑するばかりである。此処は一番、相手に対して過ちを指摘し、反省を求めて、態度を改めるよう、ハッキリと意見しなくては本人の為にもならない。
そこで機会のある度に、俗物を前にしていちいち意見するのであるが、俗物には人の話を聞くという態度が見られず、かえって無法ぶりが酷くなる一方なのである。まだ此の俗物にとって、人の忠告を聞くという行為は時期尚早であり、敷居の高い事が理解されたので、暫くは放っておいたのであるが、すると何だかんだと言い掛かりを付けては人の仕事の邪魔に専心するようになり、其の馬鹿馬鹿しさにすっかり食傷した私が「ハイ、さようなら」と会社を辞め、毎日を楽しく遊び暮らしていると、十日程も経ってから突然に件の課長と思しき人物が現われ、しかも明らかに昔日のルンペンを標榜した風袋をとっており、追憶の浮浪者達を心象風景に鮮やかに甦らせる演技力も確かなものがあって、その感性にちよと感心していると、空かさず口撃が開始された「自分の独断と偏見により、退職は慶弔休暇に差し替えられており、君のような斯の世界に不必要な馬鹿者、いや必要欠くべからざる人間を失う事は、其の損失がただ我社のみを覆い尽くすに止まらず、業界に全域にわたって回復し難い甚大なる被害を及ぼす事は必至であり、かかる事態に立ち至ったのはどの様に見ても全て自分の不徳の致すところで間違いはないが、どうか今暫し愚かな上司に猶予を与え、優れた仁徳の所持者に相応しい寛大さを以て事態復旧の為に其の比類なき力を貸して欲しく、厚かましいのは重々に承知しながら、その代償として提供するべきものもなく、利あるのは当方のみなるに、それでもやはり唯一無二の存在を再び事業所内で見かける事が出来るなら、もう此の世に思い残す事は無いほどであり、知恵の薄い此の身には何事も及ばぬ事ばかりで、それが為に係る事態に立ち至った訳であるから、勿論自分は君が復職の暁には入れ替わりに退職するのが当然の成り行きであり、だからこそ覚悟の出で立ちで現れたが、だいたい自分の如き幾らでも替えの利く有象無象と違い、君は余りに無能すぎて余人を以て代え難き存在なれば、その附随する義務もまた代え難いものであるのは理の当然であり、きっと其の義務の一項には善意による弱者救済という項目もある事を私は確信しており、その確信を希望ある未来へと変える事が出来るなら、元々が善意の化身、弱者救済の権化ともいうべき我々であるから、きっと一体全体に何処で其の美しいボタンのかけ違いが生じ、二人の仲を裂くことになったのか、せめて其の原因だけでも探究すれば、真実はきっと二人の認識と違い、両者の並外れた正義の思いと実行力から始まった事が明らかにされるのは必定であり、ならば迎え至る此の現状は、本来に於いて実現されるべき現在では有り得ない事実も明白となって、過去から現在、そして未来へと続く栄光の道が、まさか途切れはしないと思うが、何等かの不安因子となる可能性は確かにあるのであり、その誤解だけでも解消しておかなくては、我々二人の間では間違いはないだろうが、悪意の第三者によって本当の危機へと至る可能性を考慮すれば、やはり今一度考え直して事業へ立ち帰る事が本筋であると言わざるを得ず、今一度繰り返すが其の力を我々事業者に貸し与える事こそが現状打開の決め手になる事を認識すべきであり、僅か一ケ月二ケ月ほどの期間に過ぎなかったが求めるところは同じであったはずであり、燕雀の君の志と鴻鵠の私の志では其の内容に天地の差の有るのは当然であるが、指し示す方角は同一であったと今でも私は確信しており、その尊き思いを今一度思い起こして、ただただ業界の為、日本の為、ひいては世界人類の為に復職してほしい」と大号泣して頼むのであった。
其の立て板に水を流すような嘘八百が如何にも心地よく、あまり上等ではない人間に的を絞った話の筋書きも好みにピッタリで、しかも何処かでよく見た光景とソックリであり、焼きそば屋をやっていた頃の懐かしさも手伝って、ついホロリとしながら復職すると、退職前にも増して俗物の攻撃は巧妙を極め、そして激しく繰り返されるのであり、その豹変ぶりに流石は日本の工場に相応しい選び抜かれた逸材と感じ入ったものである。
とにかく顔を合わす度に難癖をつけては陳腐な文句を不平たらたらで何度繰り返しても飽きるという事がなく、瓢箪から駒という事もあるので、一応は相手の言い分を検討するが、唯の一度も此方に落ち度というものがあった試しはなく、全て相手の一方的な嫌がらせに終始するばかりで、遂には連日連夜に亘ってかなりの時間を無駄にされ、業務や人間関係に無視できない支障も出始めてしまい、いつの間にか私の方でも負けじと俗物を怒鳴り付けたり、手荒く追い払ったりするようになっており、ふと気が付くと、なんと俗物と同じレベルにまで人間の性というものが落ちぶれており、知らず知らずのうちに堕落という巧妙なる荒業の餌食となっていたのである。
それにしても、俗物が難癖を付けると当たり前のように激しく言い負かして自己満足に耽り、時には知らん顔で無視を決め込み現実逃避に下らない時間を楽しみ、別の時は少しばかり譲歩して言い分を聞いてやり、現実との妥協を図っていい気になる。
全く以て問答無用、弁明不可の卑怯ぶりである。恥知らずにも、常に自らを慰めながら易きに導く自己保身があり、いつ如何なる時も自分を正当化する無様な自己弁護があった。
私は楽しく幸せに人生を生きて行きたいのであって、自己満足を重ね、自分や他人に言い訳をして自己保身の権化となって生きて行きたい訳ではない。
正に由々しき事態である。自分と同じ低レベルにまで相手を引きずり込む、恐るべき罠の餌食となっていた私であった。それ以降、私はどのような者に相対し、どのような状況であろうと、心の中に怒りや呪いの猛毒を作らず、必要な事のみを心に留め置き、新たな生まれた猛毒の種を様々な悪徳として発展させ楽しみ味わうような自殺行為を止め、心に歪みを作らない事に徹するようになる。俗物に対して生まれて来る感情の波も、これは人生を生きていく上で必然的に生まれて来る心の垢という事実を悟り、その場ですぐに捨て去ってしまい、勇気を以て誤った感情の残滓を全て綺麗に一掃して、硬直した思いに凝り固まった心を開放し、制御された融通無碍の感情の働きを得る事が出来たのは、我ながら予期せぬ快挙であった。
それ以降、相手から与えられる一切の害悪が鏡に反射するように相手へと返って行く様が見えるようになっており、何事があろうとも、その場その場に於いて正しい対応が取れるようになっていたのは、またしても出来過ぎた精進ぶりであった。
相手へ向ける悪意というものは、必ず自分へと返ってくるものであり、世の中に恐ろしいものが有るとすれば、其れは自分の中に潜む悪の自分自身である事を此処に至って漸く思い知らされたのである。
「そういえば今日はまだ課長に会っていなかったな、一体全体どこでサボっていやがるのか、いやサボる位ならまだいい、本当に困るのは仕事をやりだす事で、あの者が働くと現場は収集がつかなくなってしまう、それにしても働けば働いただけ事業に損失を与える素晴らしい人物を課長に選んだ上司とかいう連中も、当然のことながら其れ以上の素晴らしさを以って事業に邁進しているはずだから、一体全体この会社のトップはどれほど素晴らしいのか想像もつかないわ」
すると目の前に魔法のように俗物課長が出現した。ああ、そうだったのか、タルパーだったのか、俺が自分自身の為に作り出した、座敷童の大人バージョン、大人の座敷童だったのか。子供の頃とは目的がまるで違うが、確かに俺の為にはなってくれた。だが、もはや必要はない、ありがとう、そう念ずると俗物課長は永遠に去った。
そして課員の俗物課長に対する記憶も急速に薄れていき、その日の終わりに俗物課長を記憶している者は皆無となっていた。総務課にいる利を生かして俗物課長の履歴書を調べると、書いてある字は私の下手くそな字であり、貼ってある写真は友人の汚い顔写真であった。
これなら見つかったところで、私の悪戯として簡単に処理されて終わりである。まさか大人となってもタルパーを呼べるとは想像すらしなかった私だが、改めて工場内を見回すと、5百人のうち七十人程がタルパーであったことは大変な衝撃であった。
私のように厳しいタルパーは稀で、大抵は飲み友達であったり、碁を打ったり、マージャン卓を囲んだりと、かつてのタルパーと殆ど変わらぬ役割を果たしている。
シャーマン・壱
ふと気が付くと、三十名ほどの大人達が遠巻きにボートを眺めており、散乱するガソリンタンクの処理を検討中と見受けられた。 童子の方は大人達の配慮であろう、安全な遠方へと退避しており、此方は河岸に遊ぶ事に余念がない。
すると、大人達の方に動きがあり、どうやら私の処分をめぐって意見の対立が激しく、中々まとまりそうにもない様子である。不思議なポルトガル語を話す男が何人か混じっており、中の一人が実によくしゃべるため、会談の内容を理解するには苦労がない。私の聞いたところによると、彼等の論点のその何にも私の生存の可能性は含まれておらず、殺処分の方法と死体処理の手順について議論が沸騰しており、過去の例に倣うべきか、新たな方法を採用するのか決めかねているようであった。
彼等が言うところの過去の例とは、どうせ死にかけのようでもあるし、ならばいっそのこと川に投げ込んでサッパリしようや、という至極当たり前で常識的な意見で、因みに私もそのやり方に賛成であった。もう一方の方法は、幸いにもガソリン持参でやって来たのであるから、盛大に焼き殺して燃やしてしまい、灰にした上で風に飛び散らした方が気分も良いし、村の未来に対して良い意味での教訓を遺す事が出来る、というもので此れは此れで中々に説得力があった。
そのとき、一団から離れた処で話を聞いていた男がシャーマンを呼ぶように指示を出した。明瞭なポルトガル語を使用したのは私に聞かせる為であろう。
そしてシャーマンは既に其処に居た。突然そこに存在した。シャーマンは私を真っ直ぐに見る。すると何故か、日光は華厳の滝に至るエレベーターと、その周辺に営業する心安い馴染みの飯屋が、病んだ私の脳裏に燦然と展開されるのであった。
「そういえば馬鹿な観光客から金を巻き上げる為に、滝の周辺でハローキティの紛い物を売り捌いた事もあったな。ちょうどキティラーとか云う気狂いが大繁殖していた時期にぶち当たって、結構いい稼ぎになった。そして飯屋と組んで出したあの企画、滝を背景に大集合した、あらゆる年代のデブ男が全裸となって、トドをイメージした馬鹿食い三昧に耽り、挙句の果てにただの水をひたすらガブ飲みするだけの写真集は、評判が良かったのに面倒臭くて第二弾は出さなかったな」
「あの頃はノストラダムスの預言を本気で信じ切っていた時期で、1999年7月までは精一杯に健気に生きよう、何があってもくじけちゃいけない、そう悲壮な覚悟を決めて7月までしか人生設計を行っていなかった。どうせ来月はやって来ないんだ、有るだけの金を全部使ってしまえ、無くなりゃあ借りれるだけ借りればいい、どうせ来月には地球そのものが綺麗さっぱり消えてなくなってるんだよ。やりたい事があれば、何だってかんだって徹底的にやり尽くせ。犯罪行為だって何だって構わないんだよ、もう人類は終わりなんだから。そういう訳で8月からは死ぬ目にあったな」
シャーマンは本当に腰を抜かしていた。驚いた村人が邪悪の権化たる私からシャーマンを守るため、彼の周囲に散開して一斉に臨戦態勢をとると、シャーマンは直ぐにそれを制し、件の男の余りも馬鹿馬鹿しい生き様と膨大に浪費され尽くした無駄な人生に圧倒されて腰を抜かしただけであり、自分自身には全く別状が無い事、私に関しては邪悪というより非常に哀れな存在である事実を村人に力説した。
シャーマンの話す言語はまるで理解出来ないが、私の胸裡に響いて共鳴し、その内容は完全に了解する事が出来た。善なる意志がこの若いシャーマンの原動力であり、生きる為に最低限の物だけを身に付け、手に入れた物は全て人々に分け与え、人々の善意も又、シャーマンの元に集まる事を知って、歓びと感激の止まる処を知らない私であった。
士は己を知る者の為に死す、村人にボートの残骸、童子達とシャーマン、ネグロの空と瘧、もう何もかも済んでしまった事だ、私の中には既に思い出として格納されている。してみると、此の地に至る方法に問題はあったものの、結局は全て結果オーライであったのだ。いつもの癖で悪い事ばかりに考えを巡らせたが、実は良い事を成していたのに気が付かなかったのだ。
——思い違いをしてはいけない。お前は今に至るまで善い行いを成したことが無く、たまたま良い事をしたように思えても、全ては第三者の善意の現れなのだ——
「なんやの、このシャーマン。キッツイこと言わはるわ、死人に鞭打つ気いやろか。そやけど、あてをおとなしいだけの妓やろ思うて侮ると、そのうち清水から飛ばしますえ」知り合いの芸妓を真似て心中に独り言を云うと、やはりシャーマンには一方ならぬ驚きがあった。
——ある程度は原因と結果を知り、少々は善悪を乗り越える者となりながら、真実に背を向け、正道を外れた生き様を好み、こと此処に至って死に体となり、いったい何を思うか——
「こら〜人の話は最後までキチンと聞く、そんなこっちゃ良い子の仲間入りは出来ないぞ。悪い子になって一番困るのは自分自身なんだから〜」
保育園に体験入学をした頃の記憶がふいに甦り、担当の保育士が園児を叱責する、独特の声の調子も懐かしく思い出されるのだった。仲間だった園児達は今頃どこで何をしているのか、みな元気であって欲しいが。
私が保育園、あの男がSMクラブ、遥かなるススキノの空も遠くなり、このネグロの空とつながっている現実を信じきれない私であった。私の通っていた保育園は国家試験に合格した保育士や教諭が経営していて、18才未満の入園が禁止されている以外は、保育園として完全な環境が提供されていた。
「まだ子供だから嘘をつく事もある、しかし本当の事も言わなきゃだめ。それから嘘はつかないけど、本当の事を言わない子はもっとダメ。人を騙して自分だけ得しちゃった悪い子は、それ以上に人助けをすること。人は騙さないけど、人助けもしない悪い子は保育園にいられなくなるからね。そして助けてもらってばかりで、ほかのお友達を助けない子は、その分を死んでから別の世界で返す事になります………いつの間にか保育士の姿も声もシャーマンとなってしまい、せっかくの回想を邪魔されたのは残念だった。保育園へ行くと人々はみな明るい、争いはあるが、楽しく生きている。保育園を出ると争いはないが、薄汚れた惨じめな人間ばかりだ。
——今のお前は自分の罪に慢性化して悪徳に慣れ切ってしまい、罪を犯しているという意識もない。大した事のない地位や下らぬ名誉に固執して、その物欲の為に他人を犠牲にして省みる事がないし、他人を踏み台にしているという意識すらない——
あの男の言によれば、ワシ等は余裕で犯罪者の基準をクリアしており、それどころか、いつワンランク上を目指しても全然おかしくない程の充実した現況にあるという。
しかも日本の法律は一部の例外を除き、全て悪人を保護する為に作られているから、犯罪者に成るという事は大変に良い選択肢であり、巷で流行りの勝組とかいう腑抜けの卑怯者よりはよっぽど充実した人生が約束されており、日本の上流国民が一人残らず忌まわしい極悪人である現実を見ても明らかなように、当面の目標に社会的犯罪を掲げる事は、必ずや人々の賞賛を得られる現実を、微に入り細を穿った説明を以て、いちいち我々に話すのであった。
また日本国に於いて刑務に服役する人々は必然、全て立派な人々ばかりになり、正しい人間を毛嫌いする日本人は、刑務所に悪人を入れるなどという行為を絶対に許さないという。
とにかくワシ等はあの男に説得されて、何をするにも新しい視点と精神の基礎代謝を上げるべきだという意見に丸め込まれてしまい、謂う所のワンランク上を目指し、他の馬鹿共も何人か誘って自己変革やら成長セミナーみたいなものを随分と色々にやり込む事になった。
三年に亘って有り金の全てを注ぎ込み、出来る事は全てやり、死力を尽くして、自殺願望の如き努力もした。そして全てが終わった時、そこには三年前と何も変わらないワシ等が居た。
我々は自己激変大成長セミナーとやらの経営者を、あの男と一緒くたにして袋叩きにすると、彼等が所有する動産不動産の全てを近所のホームレスの名義に書き換え、その足で憂さ晴らしの旅へと立った。
——これからはお前の国をはじめ世界の国々に災害や天変地異が次々と起こり、早死や若死あるいは事故死など、人智の及ばぬ天災に見舞われるだろう。
社会の基本である家庭の崩壊、親子の断絶が当たり前のように起こり、教育機関は教育を忘れ、時の権力者という、悪魔の手先の為に教育を行い、闘争や破壊、戦争に加担するだろう。
ペーパーテストで人を選ぶ社会の仕組みは、必ずや我欲のみの出世型の人間を生み出し、精神異常者でも一国の首相にしてしまう現実を思い知る事になる。
光の御使が数多く生まれ、人々の救済にやってくるが、旧来の狂信者や盲信者に迫害され、学者や権力者によって使命を果たせずに死んでいくだろう。
お前も知るように、小役人とグルになった資本家は弱き人々を犠牲にして反省する事もなく、権力を握って傲慢となり、日々に歓楽を尽くして、本能丸出しの肉欲行為にのめり込み、欲望の権化と化している。
企業は国民によって成り立っている事を忘れ、彼ら資本家は人々を貧困に追い込み、批判する正しき人を軍隊や警察を使って死に追いやり、国民を資本家の利益の為の犠牲とする。
全ての資本家が無限地獄へと落ちている事実を何と見るか。彼等資本家は邪悪な宗教にのめり込み、自分達が地獄へ落ちる事はないと信じ切っている。
其れこそが悪魔の仕組んだ罠とも知らずに、神を自称する悪魔を拝んで喜び、忌まわしい行為に溺れ切っている。悪魔は資本家が自分達を拝んでいる愚かで無様な姿を嘲笑い、警察や軍隊を使って正しき神の子を迫害し、忌わしい欲望の虜となり果てている惨めな姿で、地獄以外に行き所を求める愚を、心底馬鹿にしている。
経済の利益を独り占めするという愚行を繰り返し、其の代償に地獄行きと、件の悪魔の奴隷という地位を得て、果たして彼等は満足するのだろうか。
中には地獄落ちを趣味としている者もあるだろう。しかし自分達だけで落ちるならまだしも、子々孫々にまで地獄行きの種を撒き散らし、一族郎党の全てを地獄へと巻き込んで恥じる事のない其の姿は、まごう事無き悪魔の眷属である。悪魔は資本家を抱き込み、その首筋を掴んで決して離す事はない。
資本家の中にも多少は目端の利く者がおり、邪教の教えの余りにも矛盾が多すぎる現実に目覚め、ひとかたならぬ不審を抱いて、自分達の人生は最初から全て間違っていたのではないか、到底許されぬ大罪を犯し続けて来たのではないか、そのような真実に気がつく事がある。
その時、悪魔は疑いと不審を晴らす為に低級で安っぽい奇跡を見せる。悪魔にはそれ位がせいぜいだが、自分が信じたいものだけを信じる資本家を騙すには其れで十分だ——
シャーマン・弐
今迄はシャーマンの顔を立て、何も言わずに居たが、もう此れ以上黙っている訳にはいかぬ。
「其れほどまでに神が居ると云うのなら、何故斯くも無惨極まりない世界を放置して傍観するに任せ、悪人供を栄えさせるのか、これでは居ても居なくても同じではないか」
——タルパーを見ても明らかなように、人の心は現象を生み出す能力がある。人間にはモノを創造する能力があるため、善い心には善い世界が、悪い心には悪い世界が訪れる。
何故なら人間の在るところの世界の一切は、神により人間の意識に任されているからである。人の意識に合わせて宇宙はその姿を変転させて行く、人間は意識と創造と自由を以って世界を創造し、人間が善を望めば世界はそれに応えるし、悪を望むならやはり悪の世界が訪れる——
「そうまで云うなら、神として強制介入をするべきではないか」
——人間には個の生命としての尊厳があり、それは何人たりとも犯す事は出来ない。たとえ神といえども、たった一人の人間の意識に干渉する事は出来ないのだ——
「随分と人間が偉大なように感じられる物言いであるが」
——その通りだ、お前を教育した者は人間の偉大性を悟られぬよう、最大限の努力を惜しまなかったはずだ。お前たちの教育は人間が皆、神の子である真実に目覚めぬよう細心の注意を払っている。
神は人類の修行の場としての三次元宇宙を与え、等しく神の子として全人類に平等な慈悲を注いでいる。神の子である人間に、地位や名誉、学歴などは何の関係もない、浅ましい者共が人々を支配し、自らの利益をはかる為に作り出した虚構に過ぎないのだ。
地球上に於ける万象万物は人類の修業の為に神から与えられたものであり、其れ等を独占して人類の修業を損なう行為は、如何なるわけがあっても許されない。
神より修行場として借り受けている斯の宇宙に、愚かにも権力、経済力、暴力などにより我欲中心の不平等な社会を作り上げ、人間が存在するために必要な森羅万象の一切を提供し続ける神に感謝の心もなく、自分ひとりが勝手に生きていると思い上がり、人から奪うだけしかしない者達がどうして地獄以外の行き所を得る事が出来よう——
「いいんじゃないですか、それで。堕ちたい場所に行かせてやれば。彼等が選んだ人生だ、なにもわざわざお節介を焼く必要はないでしょう」
——お前は今まで、自分の敵や自分自身が悪と断ずる者達に対して助言を行った事がない。ただ冷然と彼等が罪を重ねるのを眺め、地獄へと落ちていく様を小気味よく思い、何等の慈悲心無く、まるで娯楽の様に楽しんでいるだけだった。
だからこそ、お前自身が唾棄する者達と、お前自身との差は殆ど無い事に気が付かないのだ。 お前は、なぜ彼等がそうあらねばならなかったのか、考えた事が無い。人の気持ちを分かろうとしないし、人の置かれた立場というものを考えようともしない。
お前はいつでも無意識のうちに自分の利害を優先させるため、相手の置かれた立場、相手の気持ちを思いやる心が生まれてこないのだ。いつもいつも常に自己保身しか考えていないのだ。
狭い視野、小さな心、小さく完成された偽の自分自身で浅ましく生きているだけなのだ。お前は自分に慈悲の心が有ると思い上がっているようだが、お前の見せる慈悲は利害関係が自分に有利な時と、自分には全く関係のない時に限られるではないか。まさに慈悲の心なき偽善者なのだ。
勇気を以て、今までの小さな自分を脇へ置き、自己保身を捨て、執着を捨て去って、初めて生まれて来る広く大きな慈悲心を以て相手を見よ。その時、お前は広い視野、広く大きな心で相手の立場を思い遣り、其の心が分かるだろう——
「其れがどうしたって云うんです。多少は善行を積んで、聖人君子のはしりになったからといってネグロの歴史を変えるほどじゃあないし、まして此の人間社会には何ほどの事もないでしょう。地球の風水は相変わらずだし、男女の仲も変わらない、依然として貧乏人と金持ちが蔓延り、支配され隷属する者と支配する者が絶えてもいない」
——お前に聞きたい事がある。お前の人生の目標を教えてはくれぬか、何を求めて生きているのか是非に知りたい——
「言われて初めて気が付きました。私に目標はありません、今に至る迄ただ惰性を以て生きておりました。生きているから生きていたのです」
——ではさらに尋ねるが、お前は常に苦しみと悲しみに襲われ、心身ともに随分と痛め付けられている。何がお前を其れ程までに苦しめているのか教えてほしい——
「私に苦しみはありません、毎日が充実しており元気一杯です」
——では再び聞こう、人類の目的とはいったい何であろうか——
「其れは各人各様でしょう。人類全体を統合するような目標など存在し得ないでしょう」
——冗談と嘘を意図的に履き違えて、平然と他人の善意と好意を喰い物にする其の様は、まるで蛭のように他人の生き血を啜る忌わしい存在である。最後にいま一つ聞こう、本当のお前は何者なのだ、もう一人のお前は何という者なのだ——
「私は私、ご覧になっている者が全てですよ」
——其れはお前ではない。だいたい人間はお前のようにすぐウソをつかぬものだ。人間は其の程度の者ではない。お前は欲しいものが何一つ手に入らず、やりたい事は全てがうまくいかず失敗の連続である。また長年の不摂生から健康をも害し、将来に対する不安も増大する一方で、この頃では夜も満足に寝られないほどの苦しみぶりである。遂には憂さ晴らしに来たアマゾンで無理を重ね、病を得て生命覚束なしとは、いくらお前でも破滅の淵を覗き込む自分自身の姿に気の付かぬはずは無い。
幸福こそが真理である。 よくよく思い起こしてみよ、欲しいものを得たいというその願いは、この天と地、男と女、富と貧、支配と隷属という間にしか生じ得ない欲望ではないか。お前に其れが分からぬ筈がない。
お前がいま首を突っ込んでいるのは相対の世界なのだ、相対の世界で小さな偽の自分、お前たちが自我と呼んでいるものを作り上げ、自己保身そのものになっているために苦しいのだ。
その証拠にまだお前は村人や童子達、そして此のワシを、自らの価値観に基づき、自分と比較して喜んだり悲しんだりしているではないか。
肉体の眼を通して見た一切と、生まれてから今日までの社会生活の体験、そして自ら学んだ知識によって出来上がった存在が今のお前自身である。真の自分の上に作られた仮の存在なのだ。そして其れこそが自ら選び、生まれ来った今生の目的に相応しい修行の出発点なのだ。
肉体の眼を通して得た体験と知識は、必ず自らの欲望を土台にした偏見となる。更に親から子へと受け継がれる陋習や社会的慣習が加わり、作られた自我というものは大抵の場合に於いて、手に負えない程の愚かさを示す。つまりお前のような人間になる訳だ。
互いが相対する此の現世を、自分で作り上げた偏見で判断し、苦しみと悲しみに埋没しながら生きているのが現在のお前の到達点である。今の地球は地上の全てが相対の世界と化しているために、お前がそうなったとて責める者はおらぬ。だかと云っていつまでも其の儘では済まされまい。
相対の世界を偏見と化した欲望に取り憑かれ、自分の愚かさに嫌気が差しながら燃え上がる欲望を止める事も叶わず、偏見はますます助長され、修正される気配すら無い。
苦しみと悲しみの原因は相対と化した自分自身なのだ。相対の思いを愚かな行為と知りながら止める事が出来ず、遂には苦しさ余ってどうしようもなくなり、ただでさえ醜く歪んだ偏見を自分の都合に合わせて更に捻じ曲げ作り変え、その結果あまりに無様な価値観と成り果てたモノに縋って生きて行かねばならぬとは、哀れも此処に極まったと言えよう。
小動物が回し車の中を駆け回る内は其処から出る事が叶わぬように、お前自身が相対の自分であるうちは、其の中に於いて苦しみは永遠に続いて行く。そして其の解消こそが今生に於けるお前の修行の目的なのだ。
自ら望み、選んだ環境に生まれて来たのだ。お前は何も彼にも明確に覚えているはずである。前回の人生では遂に相対の世界から離れる事が出来ず、偽りの自我を解消せぬままに世を去り、随分と暗い世界へと落ちて行き、大変な修行の末に漸く元の世界へと戻る事が出来た。斯様な無様を二度と繰り返さず、今生こそはと思い立った決意は何処へやったのだ。
相対の自分から天地合一、絶対の自分を完成させる思いを忘れる事は出来ないのだ。今のお前の心は想念のドス黒い霧に覆われてしまい、神の光が殆ど入らぬ状態である。これからお前に見せるものは私の師に当たる方から送られた光景である。お前の幼稚な意識では私との調和が取り辛いがやれるだけはやってみよう——
ラジオのチューニングが上手く行かないような不思議な音と振動が全身を流れると、すぐに無限の広がりの中に自分自身が浮かんでいるのだった。
——今となってはお前にも見えよう、無数の銀河を含む三次元宇宙は、無数に存する四次元宇宙の一部であり、それら全ての宇宙の中の一つに見覚えのある場所が在ろう、想念のドス黒い霧に覆われた一つの世界、地獄がそれだ。
こうして見ると、此のネグロの川の其の砂の一粒より小さな世界に見えるが、よく見ると三次元世界とは比較にならぬ、文字通り次元の違う大きな世界である事が分かる。だが他の四次元世界に比べると何処に有るか分からぬ程の小さなものだ。
そして、無数の宇宙を内包する四次元世界は、五次元、六次元、七次元と、果てしなく続き広がる世界の一部にしか過ぎず、そして、それら全ての宇宙、全ての次元、全ての世界が、無限の高次元の彼方におられる神を中心として、まるでアンドロメダ銀河のように回転している斯の光景を何と見るか。
私の心では、この果てしない光景は全く認識できないため、私にも理解できるよう、師より送られた光景を先輩に当たる方がわざわざ縮小して、私の意識へと送ってくれたのだ。いま私は其れを更に縮小したものをお前に見せている——
私はその光景に自分自身が崩壊するほどの深刻な広大無辺を覚えると、今度は眼を転じて神から発する光を目に入れた、するとあまりに純粋な幸福と喜びに我を忘れてしまい、自分自身が純粋な幸福と化した事を知った。
赤の他人が見た神の印象にしか過ぎぬ映像ですら此の感激であるから、単なる一個の未熟者にしか過ぎぬ、今現在の私がもし本当に神を見たならば、まず間違いなく幸福の余りに破裂して飛び散るのは必然である。すると私の心から其の光景は引き上げられた。
——これを以て励みとせよ——
まだ私ぐらいではその程度でも十分過ぎるのだ。そして此の私でもいつの日か、直接にその光景を目の当たりにすることが出来るのだろうか。前途洋洋とは全く云えたものではない、前途は茫洋であり、はっきりと云えば前途は多難である、いや不可能ではないだろうか。
——私の師も、お前の師も、其の弟子に対して出来もしない事を伝える事はない。
「ただし、それは至難である」とだけ言葉があった——
だったらまずは出来るヤツに任せておけばよいではないか。私の出る幕は一番最後でよい。
シャーマン・参
——人間最大の不幸は終わりのない苦しみの繰り返しである。幸福こそが真理である。そして幸福とは苦しみからの解脱である。その解脱への道とは如何に成されるのか、全人類が共通の解脱へと至る道を説いた真の指導者達の言葉を、誰よりもよく聞いたお前は其の身に刻むように知り尽くしている。そして何も実践する事なく、ただひたすらに教えの全てを無視して今日へと至り、反省の姿勢は皆無である。地獄へ落ちたのも当然と云えよう——
「なぜ私でなくてはならないのです。他に幾らでも人は居るでしょう。やる気の有る者を優先するべきです」
——お前に慈悲の心あらば、口が裂けても言えぬ物言いである。慈悲の心とは人を思いやる心、人の苦しみを取り除き、助けて、楽にしてやりたい、そう願う心である。この心は自我を滅却した心、より広い心、高い境地を意味する。
だからこそ、常に慈悲の心を持ち、それを布施という形で現す事が重要なのだ。布施という行で現さなくては意味がないのだ。お前は知識としては万全とも言えるほど知り尽くしいる。そしてただそれだけの存在である。早くから正法を知り、知識としとの理解を重ねても、実践の伴わぬ者は永遠の時を経ても悟りへと至る事は出来ない。
正法は知れば知るほど信ずるしかなくなるものだ、そして信じたなら必ず行ずる。人が二本の足を以って立つように、どちらか片方が欠けても前に進む事はできぬ。そして行ずるほどに様々な問題にぶつかり疑問が生まれてくる。疑問は行ずる者に対して必ず解決を行えるように仕組まれている。それが斯の世界の理である。解決をみれば理解は深まり、信の心も広く深くなり、信と行はいよいよ其の幅を広げて悟りへとつながって行く ——
「ならば生まれて来る事が間違いと云えましょう。此の世に生まれ、本当の自分の上に小さな自己を確立し、苦しんでばかりでは阿呆らしくて嫌になります」
——その位は理解出来るようで安心した。本当の自分というものが、まだ我々では余りに未熟で問題点に溢れているからである。問題点だらけの本当の自分の上に自我を形成し、歪み切った自我の修正を行う事によって、本当の自分の問題点も同時に明らかとなり、本来の自分も同時に修正する事が出来るからである。
だからこそ、最も自分を修正出来る環境を選んで生まれくるのである。その際に於いて過去世の記憶は邪魔にしかならないから、自分の記憶を封ずるのが通常である。お前のように、早くから過去世の記憶を呼び戻す者は、よほど修業が上手くいったか、何等かの原因で大失敗したかのどちらかである——
「やはり私は正しかった。様々な困難と障害に見舞われ、虚しい行いや無駄な努力も散々やった。町内会や世界人類の為に随分と無理な事もした。しかし結局は正しかったのだ」
——最初は私も大変に驚いたものである。お前の人生が何から何まで全て失敗に終わっている事実を見て、まだ知らぬ新しい地獄行きの方法を模索していると勘違いしたほどである。
しかし現実逃避を何とか克服できたのはよかった、あのまま事態が進むと現実逃避くらいでは苦しみが治まらず、今度は自己逃避が始まり、自己逃避が自己陶酔まで行くと、いよいよ狂人の一歩手前となる。
自己陶酔の者は他人の意見を聞く事が出来ないし、また理解する事もほぼ不可能となる。お前達の国の宗教の指導者達を見れば其れはよく分かる。また政治家や其の取り巻き連中も自己陶酔の者が非常に多く、いつまで経っても狂ったように自分の主義主張に固執し、正しい意見に耳を傾ける事の出来ない人々である。
その様な者達でも悪魔の囁きには簡単に耳を傾ける。むしろ悪魔の声を待っている者が殆どである。そして自分が聞いた悪魔の声を、都合よく神の声を聞いたと思い込み、遂には使い勝手の良い悪魔の手下へと成り果て、様々な悪事に心身を損ないながら、落ちる所まで落ちて行くのである
忍 辱
お前は自己逃避の手前で何とか踏み止まる事が出来た。またその際に忍辱の心も多少は知る事が出来た。忍辱とは心の試練である、そして試練はただ耐えて行くだけでは意味がない。
他人から誹謗され、暴力的とも思われる中傷を受けると、つい自己保身の心が働きだし、怒りや憎しみの感情が燃え上がる。 他人から誹謗される自分には誹謗される原因があるからであり、全く身に覚えが無いのであれば其れは天の試練である。
天の試練とはいっても試練を受ける原因が自分にあるからであり、まだ気の付かない自分自身の業を早く見つけなければならない。日常からの心の動き、日常の行為を広く冷静に見渡せば、必ず其のカルマ(業)の断片が見つかるはずである。
その断片からは必ずカルマの正体が明らかになる。その正体がどんなに予想外であっても、認め難いものであっても、其れがお前のカルマなのだ——
してみると、あの男の女装癖やワシの幼児退行なんかも業なのか、少し違うような気もするが。ワシの焼きそば屋、あの男の議員もやはりカルマのあらわれだろうか。いや、大筋では馬鹿と云うのがカルマではないだろうか。
——いまお前が思った事、其れが断片である——
すこし冷静に過ぎないだろうか、いくらシャーマンとはいえ。これではワシの立つ瀬がないわ。
——悪が立つ瀬を心に作らぬ事である——
ここで腹を立てると思っているようだが、そうは問屋が卸さぬわ。如何なる意見、如何なる思いをぶつけられても今のワシには何も彼にも、冷静に完全に処理できることが分かる。まったく腹も立たぬ。
——大いに問題はあるが、今の心境を忘れぬ事だ。波立つ感情のエネルギーを放電して、必要な事だけを心に留め置き、心に些かでも歪を作らぬようにする。どのような目に会おうとも、心を損なわず毒を作らぬ事に徹する、それが忍辱である。これからのあなたは、石で打たれ、刀で切られ、銃で撃たれ、其の身を八つ裂き、百裂きにされるであろう。しかし全てを忍辱して反省し、如何なる怒りも憎しみもなく、一切の現象にとらわれず不動の心で乗り超えて行かなくてはならない。痛いのは嫌だ、と考えているようだが、いずれ時が至れば必ず起きる事である。
正法は謂わば道である。あなたは其の道を知る者だが、現実には全く道を歩んではいない。
道を歩む者は勇気と智慧と努力によって歩むのであって、知識によって歩む事は出来ない。
言い換えるなら、勇気、智慧、努力を以って自らの欠点と誤ちを修正し、
毎日の生活に於いて心と行ないを正して行く者は、
正法を知らずとも、正道を歩み、正法を行じているのである。
生活の中に悟りがあり、正法があるのだ——
[To Be Continued]