宇宙の兄弟たち

 
 粗悪品を素早く調理して、馬鹿馬鹿しいほどに安い値段で客に喰わす、賎民御用達レストランの中に今日も私は居た。
 入るに際して一応は逡巡する。しかし必ず欲望が勝り、遅い昼飯、あるいは早い晩飯を作法無用で乱暴に真喰い、合間に酒をあおるのが止められないのだからどうしようもない。
 店は混んでいた、狭い通路を空席をさがして薄暗い奥へ進むうち、極めて低俗なゴシップ紙に熱中している一人の男がおり、前の席に人の気配がなく、どうやら空いているようである。
 「よろしいですか?」確認のために声をかけると、男は唸り声を発して私を見上げ、返事はせずにまた新聞へと視線を戻した。
 「沈黙は了解の合図」、と考えている私は「ありがとう」と男に挨拶して、わざわざ男の真正面へと周り込み、派手に音を立てて座り込んだのも仕方がないと言えば仕方がない。
 テレパシーの通じないウエイトレスに注文を通す為、わざと手を振り回し、派手にテーブルを叩いたのも仕方がないと言えば仕方がない。
 男はまた唸り声をあげ、上目づかいに此方を睨んだが、私は愛想よくニッコリと微笑んだ。すると何故かは分からぬものの男の方針は変更され、我慢した方が得策だと判断したらしく、おとなしくゴシップ紙へと興味を戻していった。
 この店に於ける過去の経験に照らし合わせ、最悪の事態をも想定していた私は驚いた。どう見てもまともな世渡りの出来る男ではない。其れは人目を憚る事が不可能な、派手な獄門面を見れば分かる。そしてその獄門面を以て、日々の生活に於ける万象の決定という、人生の創造行為に活かせなかった過去が容易に推察され、のみならず其の証拠物件として提出されるに至り、男を見る者すべてに対して、憎しみや恐れ憧れや同情など、様々な思いを胸中に去来させずにはおかないのである。
 気が付くと、いつの間にやら過去に出会った様々な獄門面を回想しており、馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、追憶の特徴をいちいち吟味するうちに、いくつか共通の様式に於いて類似的なパターンを抽出できる事実を発見した。
 「どうでもいい事じゃないか」とは感じつつ、抽出されたそれらのパターンを統合するうちに何処かで見たような顔が形成されたので、一体全体どこで見たものか夢中になって思い出すと、ようやく今日の朝、鏡に映った自分の顔である事実を確認して盛大にズッコケたのであった。
 きっと件の男も私と同様、この塵界に於ける数少ない食事処を求めては遂に見出し、その他大勢と共に此のレストランへと掃き捨てられたのであろう。実に気の毒な境涯である。気の毒ではあるが其の代わりに超人的な底意地の悪さ、驚異的な趣味の悪さ、異常で爆発的な体力の備えていることが見て取れる。
 このような世相は一刻も早く完全に破壊し尽くして、人々が皆平和に暮らし、幸福な現在を楽しみ、実りある豊かな未来を実感できる世相へ転換しなくてはならないのだが、自分や向かいの男を見る限り、それは果てしなく遠い、別の世界の夢物語にしか思えないのが残念だ。
 心安くもなく安全でもない、この手の安レストランは客寄せの為に低俗なゴシップ紙を揃えて入口付近に積んであるのが普通だから、この男がそれを読んでいても特別の感慨はない。
 ウエイターのようなウエイトレスにゆで卵を半ダース、マッシュポテトの大、パンケーキの特大、ベーコン玉ねぎのキッシュの超特大とビールを注文してから、出来上がりを待つ間、私も低俗なゴシップ紙を読む事にした。
 ところが店内の何処を見渡してもゴシップ紙が見当たらないのである。ふと思い付いて向かいの男を見ると、灯台下暗し、男の横には大量のゴシップ紙が積まれてあった。
 おそらくはこのレストランが揃えた殆ど全部であろう。いくらゴシップ紙とはいえ、その全部を独り占めとは随分と我侭勝手な男であるが、常識知らずの恥知らずがタムロする此の店内に於いては、むしろ此れ位が当たり前なのかもしれない。 それにしても、私は未だ嘗て、これ程までにゴシップ紙なるものを精読している人間を見た事がない。
 このようなゴシップ紙というものは、まず大抵、自分の興味が立つ箇所から先に目を通し、残りはざっと拾い読みをして必要な情報を仕入れると、あとはそのまま忘れてしまうというのが一般的な利用方法であるが、この男は最初のページから隅ずみまで目を通し、 1ページ読み終えた段階で深く大きな溜息をつくと、いま一度、日付や面数を確認し、確かに読み終えたことを納得してから初めて次のページへと読み進むのであった。
 どうやら書かれていた内容の全てを真実だと確信しているようである。男が手にしている紙面の一面のスクープを見ると、其のゴシップ紙の記者が宇宙人の捕獲に成功しており、また横に積まれてあるゴシップ紙の一面はネッシーが妊娠した事を知らせ、中国の主席が本当は女性であり、近い将来には地球の自転が止まる事を告げていた。
 やがて男は手にした一紙を読み終えるだろう、如何なる手段を尽くしても其れを避け得る事は難しい。そのとき私はいったい何を為すべきなのか、ハッキリしているのは刻一刻と二人の上にのしかかる其の時を避け得る方法はあり得ないという現実と、必ずや物凄く下らない結末を迎えるに違いないという確信に満ちた見通しだけである。
 男はようやく一紙を読み終えると、通路と反対側のテーブルの端に、至極満足げな態を示しながら、既に注文されていた品々を慎重に避けて其れを置いた。待ってましたとばかりに其れをひょいと取り上げ読み始めると、向こうは此方をチラチラと窺っておるようである。
 三十秒ほどで読み終えてしまうと、今度は手を伸ばし男の横の一部を取り上げて読み始めたのであるが、男の気配に異様な変化があり、此方に送る視線にも先程来とは比べ物にならぬほど強力な敵愾心が充満しているようであった。
 勿論、この店の常連はありとあらゆる理由で突然に激怒するのであるが、奇妙な事に人として許されざる侮辱や理解の範疇を逸脱する辱しめに対しては寛容な態度に終始しており、それよりはもっとつまらない、些細な出来事に対してのみ、腹を立てたり荒れ狂う傾向が見受けられるのである。しかし、私もこの店の常連として、やるべき事をやらなくてはならない。
 まずは如何にも相手を馬鹿にしたような調子で鼻を鳴らし、胡散臭げな視線で男を一瞥すると、次にサーチライトの如く視線を切り変えて高圧的に相手を見据え、事の発端が腰を抜かすほど馬鹿馬鹿しいのは重々に承知ながらも、目前の相手に対する威圧を強化し、目下の案件に対する其方の態度が、妥協か決戦なのか、はたまた撤退か、今一度きつく睨んで早急な選択を強要したのである。
 すると男の方に、予想できなかった可能性が発現しており、過去の経験に照らし合わせてみても、極端に不毛な結末しか記憶に残っていない、霊感体質の可能性が見て取れたのである。
 男はすでに呼吸が荒く、濁り切った目に尋常ではない光が宿り、身体が極端な興奮による震えを発し、全体的に異常な活力に溌剌として元気一杯であり、筋の良くない霊感に打たれた精神異常者然としながらも、総合的に判断すると、かなり幸福な状態にあるのは一目瞭然であった。
 ここに来て初めて気付いたが、おそらくはゴシップ紙が男と俗世をつなぐ唯一の輪であったに違いない。私がそれに手を出した為に男の精神の均衡が崩れたのだ。
 人の世の悲しさ宿世の残酷さをまざまざと見た思いであったが、このまま恍惚境へ行ってくれれば、面倒は起きないし、飯も食える。それにしても私のように物事の是非道理を知らず、人はみな助け合う為に生存している現実を忘れ、自分勝手に活動する輩が増加すると、当然ながらに弱きものが犠牲となり、やがて人の世そのものが滅び去っていく必然性は此の場末のレストランを一瞥すれば明らかである。
 しかし、そうは言っても自業自得の状況に容赦はなく猶予もなかった。私が感慨に耽る間もあらばこそ、男の激情は噴火口のマグマの如く次第に湧き上がり、幸福と義憤の化身を体現しつつあるかのように見えたのは僅かな一瞬にしか過ぎず、やがて全ての感情が怒りによって統一されてしまうと、遂には爆発して飛び散る準備も整ったようである。
 男は生き生きとして、確信に満ちた視線で此方を睨んでまた唸った。本来なら同じ人類として手を携えるべき同士であり、精神の兄弟ともなり得る相手である。
 其れをかくまで敵愾心に満ちた凶暴な人物へと化してしまう、社会の仕組みこそが、真の悪であり敵でもあった。社会を憎んで人を憎まず、男に罪はない、ただ劣弱な知能を義務付けられ精神が病んでいるだけなのだ。
 しかも間の悪いことに、二人のうち一方は馬鹿で堪え性がなく、飯時のイザコザで暴力を振るう事に慣れ切っており、もう一方はゴシップ誌の熟読を妨害され怒り心頭に発している。更に二人揃って凶暴なる意思を持ち、かなり控え目に見ても強靭な肉体を誇る一個の男であり、此の店の客の一人という現実が事態に毛筋ほどの妥協も許さないのである。実に下らない馬鹿どもだ。
 男の覚悟は分かった。兎にも角にも今度は此方が決断を成す番なのだ。頼むから其処でおとなしくしておれよと哀願するばかりに悲哀を込めて男を睨みつけた。男は手を伸ばして私からゴシップ紙を奪い取った。
 とうとう禁断の一線を躊躇いなく軽々と超えた男の決断に感心したが、黙って見ておる訳にもいかない。私は曖昧な笑顔で男を睨みながら、右手で静かにテーブルを持ち上げた。床にボルトで固定されているテーブルはミリミリと微かな音をたてて、ゆっくりとタイルを剥がしながら持ち上がり、興奮した相手がまだ気の付かぬうちに、私は其れを静かに押し付けた。
 床に固定された椅子はただ軋むばかりだが、男の方は逃げる事も叶わず、忽ち顔色が赤く変わっていく。殺さぬよう骨を折らぬよう、ゆっくり限界まで押し付けると、男は全身から汗を噴き出し、ジタバタともがいた。
 まだまだこれくらいで許すわけにはいかぬ、物はつまらぬ物でも恨みは深いのだ。突然、鋭く、鈍い音を立てて、ボルトが床から弾け飛んだ。しかし、この店にいる連中は、この程度の音には何の反応も示さない。
 男は次第に勢いがなくなり、軽いチアノーゼの症状も出たので、あまり騒ぎを大きくしても得策ではないし、店への迷惑という事もあり、一旦は手を緩めて様子を見る事にした。
 しかし男が少しでも騒ぎ立てれば即座に攻撃は再開される。男は気の毒なくらいにヨロヨロと立ち上がると、ゼェゼェと喘ぎながら店の奥へと消えていった。
 不思議な事にテーブルの上に用意されていた調度品や注文済みの料理はゴシップ誌を汚すことなく整然と原型を保っている。これが私の性なのだ、自分の欲望が全てに優先されるつまらぬ男なのだ。件の男より遥かに頭のおかしい人間なのだ。
 さて消えた男の今後の方針であるが、警察に言ったところで此処には来ない。またこの辺をシマにしている暴力団に金を払い助力を頼んでも、ケタ外れに収益率の低い、忘れ去られ棄てられた嘗ての繁華街にタムロする連中は、組織が匙を投げたビックリするような人材ばかりで、たまにホームレス相手に喧嘩や撃ち合いをやらかす事はあっても、いつも負けてばかりで勝った事が一度もない、そういう連中ばかりである。
 而も此の頃に於いては、彼らの主たる収入源が生活保護に移行するという憂き目をみており、役所の小役人にすら侮られる始末ともなれば、幅の利かないこと夥しいものがある。
 そういう訳で、件の男が一体全体誰に助けを求めるのか多少の不安はあったが、飯に手を付けるまでは此処を動く訳にはいかないし、場所が場所なだけに、まずは安心して待っていた。
七~八分も待ったであろうか、逃げを打った可能性を考えていると、男は先に注文を取りに来たウエイトレスを同道して現れた。
 ウエイトレスは私を認めると、実に言い難そうな口調で「あの~、お客様が手にしていらっしゃる新聞は当店の物ではございません。こちらのお客様の私物となりますので、ご返却をお願い致します」

[To Be Continued]